石田 勇治

(総合文化研究科 ドイツ近現代史)

「緊急事態条項とナチ独裁―民主憲法はなぜ死文化したか―」

予習文献

●石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年

●長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』集英社新書、2017年

 

 

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

・ヒトラー政権において、緊急事態条項を軸に、なぜヒトラー政権が独裁へと走ることが出来たのかを見た。ヒトラー政権と言えば、国民から圧倒的な支持を得て議会を完全に一党で支配しているようなイメージがあったが、実際は全くそういうわけではなく、むしろ議会で多数を取って出てきたわけではないことが分かった。そうではなく、ワイマール憲法における緊急事態条項を濫用し、議会制民主主義を空洞化することによって独裁を可能にしていたのである。先人たちの政治手法を巧みに真似しながら、法解釈を捻じ曲げることによって独裁を確立したヒトラー。これは何も、ヒトラーが極悪人だったからこのような権力体制へ至ったとは言い切れない。緊急事態条項自体はヒトラー以前からも政治基盤を補うために利用されており、為政者であれば誰でも手を出したくなるような代物だった。ナチ独裁の議論ではどうしてもヒトラー個人の為政に目が行きがちであるが、そもそもそのような法解釈を許すような構造になっていた法自体にも注意を凝らすべきであるのかもしれない。(法学部3年)

 

これまで詳しく学ぶことのなかった、ヒトラー独裁までのドイツの道のりについて知ることができて非常によかった。日本の緊急事態条項については首相に権限を集中させるものだという認識でいたがワイマール憲法下の状況を知り、緊急事態条項が濫用され得る仕組みがないかどうかという点にもっと目を向けるべきだと考えるようになった。ドイツでは大統領緊急令の濫発によって国会不要論が湧き起こり、国会が機能停止状態になることで更なる大統領への権力集中を招くという悪循環が発生したが、この時点で権力の一極集中に異を唱えて国会が形骸化する原因となった大統領緊急令の方を批判する動きが支持を得ることはできなかったのだろうかと無念に思ってしまう。当時のドイツの世論はわからないが、国会のメインストリームを鵜呑みにするのではなく、一人ひとりが様々な形の民主主義について理解を深めた上で自国の体制を批判的に眺めることが国民に要求されることだと思う。

 また、今回の講義を受けて初めて自民党改憲案の緊急事態条項を読んでみたが、非常に短く曖昧な文章だと感じた。法律や憲法は不可避的に解釈を必要とするものではあるものの憲法作成に当たってはできるだけ明確な説明に努めるべきである。国会が機能しなくなった際の迅速な対応のために緊急事態条項を作成するのならば、考えられうる状況や濫用につながりかねない状況をシミュレーションした上で現代にあった条文を作成していくことが必要とされるのではないだろうか。(工学部3年)

 

・麻生総理の「ヒトラーは選挙で選ばれた」という発言が当時、かなりの物議を醸したことは私の記憶に残っている。その当時はその発言の真意は置いておくとして、なんとなく違和感のようなものを持っていたが、それがどう指摘できるのかという点には自分には言及できず傍観していたが、この講義で知っていれば非常に危険な発言であり速やかに撤回の指摘をされるべき、そういうものだったのではないかと憤慨した。同時にその当時その輪郭の不確かさを放置していた自分にもまた反省した。「緊急時にある程度の人権は制限されても仕方ない」というどこか国家の押し付ける「美徳」に盲目に従ってしまいがちであるが、その「美徳」とされる部分は誰の主語が据えられているのかという点について考えるべきである、そんなマイケルサンデルの一説を思い返し、それはまさに今現在このタイミングでもう一度再考しなければいけないのではないか、と考えた。(文学部4年)

 

・ヒトラーの独裁は突然に起きたものではなく、徐々に起きるものであった。彼はカリスマ性のある為政者だったかもしれないが、圧倒的に支持されていたわけではない。経済の大不況、少数派政権の継続、緊急措置権の濫発の常態化といった不安を異常な方法で解消する状態が積み重なることに人々が慣らされていった帰結が、独裁であったと感じた。第二次大戦を経て独裁の危険性を知ってなお、独裁政権や独裁的な為政者が誕生することがある現代を考えると、行き過ぎを防ぐ制度や冷静な市民が独裁を防ぐということは難しいのかもしれない。不安を解消したいという根源的な気持ちが強くなるほど、制度や理性の厳格さはゆらいでしまうのだと思う。だからこそ独裁を防ぐためには、不安を解消するために取る手段の最短距離と理性を天秤にかけ続ける姿勢が重要だ。日本の改憲議論における緊急事態条項は最短距離を可能にする方法ではあるだろうが、それが実際に必要なのかは別問題であり、独裁的な権限行使を可能にする危険性を取り除けないかぎり、私は改憲は理性的ではないと考える。(教養学部4年)

 

・ワイマール憲法という当時最も民主的な共和国憲法からナチスという未曾有の全体主義的独裁体制が生じてきたという不可解な現象は、我々に様々な教訓を伝えてくれる。緊急事態要項は本来政治的弾圧や国民の指摘生活の支配を標榜するものではなく、戦争や内乱、自然災害などの例外状態に備えて成立したものであった。しかしながらヒトラー以前の大統領も既にこの条項を権力掌握のために濫用し、議会政治を形骸化しており、早くから当初の目的を逸脱する形で条項が利用されていた。一方でナチスが(実際には議会の過半数を占めることができていなかったにせよ)大衆によって一定の支持を得ていたことも忘れてはならない。我々はここから少なくとも2つの教訓を引き出すことができる。1つ目は権力を多面的に分析する必要があるということ、そして2つ目は市民や大衆が思考し続けることの重要性である。権力者は時として本来の目的をずらし逸脱した形式において権力を濫用する可能性があることを学んだ我々は、その権力が「最大限に発揮された場合」どのような惨禍をもたらし得るかについて想像力を膨らませる必要がある。さらに「全体主義的独裁制が大衆の支持を得ていた」という命題が大部分において真だと知った我々は、我々自身が支持する政党の背景にある思想的バックグラウンドにまで立ち帰り、政党や政治家を盲信するのではなく「いつでも全体主義に転化しうるもの」として捉え、絶えず反省的な批判の眼差しを向けつづける必要がある。(教育学部3年)

 

・ナチス・ドイツにおいて「緊急事態条項」が濫用され民主憲法の死文化と独裁につながったことは、その過程を詳細に辿ってみると決してヒトラーに特殊なことではなかった(制度的な条件次第で誰のもとでもありえた)のだとわかった。そして、特に「独裁」の第一段階である議会制民主主義の空洞化/国会の無意味化などはどこの国でも起こり得るし、今日の日本も決して例外ではないように感じる。現在この国でも「緊急事態条項」の導入が議論されているが、「改憲」をめぐる二元的な賛否の対立に取り込まれる結果か、その論議は「水掛け論」的で深みに乏しい。現在コロナウイルスの感染拡大という「不安の時代」にあっては賛成派が急速に勢いを増しているが、「緊急事態条項」の「在り方」が丁寧に議論されているとはいえない。逆に反対派も、とにかく「反対」の一点張りになりがちであり、「緊急事態条項」がいかなる条件下でどのような問題をもたらしうるかについての議論は不足している。ワイマール憲法という最も民主的な憲法からいかにして未曾有の独裁体制が生み出されたのか、そこに「緊急事態条項」という制度的なバックグラウンドがどのように作用したのか、また、その反省を踏まえて他国ではどのようなバリエーションが生み出されてきているのか。こうした歴史的な経緯を精緻に議論しそこから学ぶことで、今後わが国でも避けては通れないであろう「緊急事態条項」をめぐる議論をより生産的なものにできるのではないだろうか。(教育学研究科修士1年)