第2回

 沼野充義 (東京大学人文社会系研究科 現代文芸論)

「文学と越境 ―<あいまい>な日本に境界はあるのか?」

日本をめぐる「国境」の問題が政治的に尖鋭化している一方で、文化・言語などの面を見ると、グローバル化の時代にあって日本の境界はこれまで以上に<あいまい>になっているように思われます。日本の大相撲では外国人力士たちが上位を占める一方で、日本人のサッカー選手や野球選手が日本の外で活躍する時代です。文学でもそういうことがあるのでしょうか? 日本が生んだ二人のノーベル賞受賞作家、川端康成と大江健三郎の講演をまず手がかりに、日本と日本の外を区別する境界がどのように変わってきたか考え、そのうえで、境界を越えて創造するリービ英雄、多和田葉子といった「越境作家」のありかたを検討します。さらに、英訳で世界中で読まれている村上春樹のような作家のケースも、比較して考えてみたいと思います。


参考文献

・大江健三郎『あいまいな日本の私』岩波書店、1995年。
・川端康成(エドワード・G・サイデンステッカー英訳)『美しい日本の私:その序説』講談社、1969年。
・リービ英雄『日本語を書く部屋』岩波書店、2011年。
・多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』岩波書店、2012年。

 

 

予習資料

大江健三郎「あいまいな日本の私」『あいまいな日本の私』岩波書店、1995年。
*履修者はCFIVEから閲覧できます。

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◇公共政策学教育部公共政策学専攻 修士2年

川端康成が「美しい日本の私」と述べた際、その「日本」は中世和歌等の日本の「過去」=変わらないもの、に対して視線が向けられているのに対して、大江健三郎は常に現在(大江の中では「戦後」日本?)を語り続け、現在の政治に介入し続けてきた。常に変わり続けるもの=「現在」に焦点を当てた以上、「あいまいな」日本となるのはある意味で当然で あるように思われる。村上春樹も、やはり変わらない「過去」としての日本というよりは、変わり続ける「現在」に焦点を当てて小説を書いてきた作家であり、それが支持される理由にもなってきたのではないか。

 

◇法学部第1類 学部3年

小説を書くのに必要なのは、「自己を客観的に見つめ、他者との間に一本の境界線をひく事」だ。そうして「定義した」自己を、文章という形態で表現する事だ。私はそう思っていた。だから、「いくつもの境界が一人の人間のなかで交差している」という説明を拝聴して、目から鱗だった。「無理して境界線を一本に定める必要はない。そして、その境界線に縛られる必要もない。境界線を越えれば良い。」その通りだと思った。

 

◇法学部第2類 学部3年

外国人が日本語を使い文学を作り出すことで、日本語に生まれる変化というものはどういうものだろう、という関心が湧いた。特にリービ英雄の作品を読んでみることで、その変化を探ってみたいと思った。

 

◇大学院教育学研究科大学経営・政策コース 修士2年

この授業で示された文学の2つの方向性(日本作家が外に出て行く・外国人が日本文壇に入ってくる)が面白かった。班別討議でアニメの話が出ていたが、とても納得した。アニメではこれらの現象は顕著に顕れている。世界で発信されることを前提に創られているアニメも多い。講義では出ていなかったが、アニメの世界ではグローバル化ともに、ローカルな視点も強く見られるのも最近の傾向である。現実に存在する地域を舞台にアニメが作られているものも多い。このような『グローカル』な視点は高等教育でも話題になっているが、文学でこのような動きになっているのはとても興味深い。

 

(以上)