渡辺 慶一郎

(相談支援研究開発センター、精神保健支援室/コミュニケーション・サポートルーム 臨床精神医学)

「精神科医からみる不安」

予習文献

●渡辺慶一郎(2018)「自閉スペクトラム症と不安」『精神科診断学』11(1): 75-81

●South, M. & Rodgers J. (2017) Sensory, Emotional and Cognitive Contributions to Anxiety in Autism Spectrum Disorders. Frontiers in Hum Neuroscience. 11: Article 20

●Maddox, B. B. & White, S. W. (2015) Comorbid Social Anxiety Disorder in Adults with Autism Spectrum Disorder. Journal of Autism and Developmental Disorders. 45, 3949–3960

 

 

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

ASDなどに対して、社会がどのように向き合っていくべきか考える機会となった。

「発達障害」や「アスペルガー」として病理化することは、個人の特徴を蔑ろにしており、もっと個人の特性として考えるべきだというNeurodiversityという考え方もある。しかし一方で、診断されることで安心したという患者も多いことから、区別することにも一定の実益がある。

私個人としては、一定の病理であることを踏まえた上で、弱程度のパターナリスティックな姿勢を取ることは容認されて良いと考える。Neurodiversityの考え方は、個人の意見を尊重しているように見えて、かえって個人の属性を無視したメリトクラシー(自己責任論)を促進する危険がある。一方で、病理と捉えて、個人のあり方を矯正する(多数派のあり方に近づけてあげる)といった態度は独善的であり、認めがたい。やはり当事者の意見を踏まえつつ、治療にアクセスしやすい環境づくりといった包括的なサポートを行うといった、グレーゾーンの部分に最適解があるように思う。(法学部3年)

 

今日の授業のディスカッションの3番目の問いの自分が当事者だったらどうして欲しいかという部分では、私は支援されるだけの存在でなく自分も誰かの役に立っていると感じられる活躍の場があって欲しいなと思いました。また、2番目の問いにも関わりますが無理に「普通」になるように促されるのはなんだかそのままではいけないのだと言われているように感じてしまいそうだなと思いました。なので、議論の中でも同様の意見が出ていましたが、本人の意思を尊重した上で本人が望む所に近づけるように支援したり、社会の受け入れ態勢を整えたりするのが良いのかなと思いました。ただ、全てを個性と捉えて本人の意思を尊重してばかりでは結局本人にとって不利益になることもあるのではないか(例えば現在では精神的に刑事責任を認められないとされる人がいるが、その人たちの特性も個性としてしまっては責任を負うことになりうる等)という意見もあり、本人の意思だけを尊重することの危険性も感じました。本人と周りの人(親や友人、専門家など)が一体となってその人にあった生き方を設計することが求められると思います。

また、ASDを障がいと捉えるか個性と捉えるかの部分でも、障がいとして定義づけされることによって安心する人もいれば、嫌な人もいるのではないかと様々な意見があり、個々人によって捉え方が大きく変わりそうなのでその対応にも柔軟性が求められるのではないかと感じました。制度として一律に決めることが必要なのかもしれませんが、その上で個々人をサポートする体制(説明でも断定的な言い方をせずに多様な考え方・対応があることを伝える等)が必要だと感じました。(法学部3年)

 

社会モデルに従うと、障害とは人の内部にあるものではなく人と社会の間に生じる摩擦を指し社会の側が変わることで摩擦を取り除くことを目指すが、自閉症や発達障害のような「見えない障害」は摩擦がいつどこに発生しているのかわかりづらく扱いにくいと感じた。当事者を定型発達者に近づけるという観点はどちらかというと障害が当事者の内部に起因すると考える医学モデルに近く、また定型発達者を定義できるのかという点で問題があると思った。もし不安症や自閉症の要因が脳などの身体的特徴に見出され治療によって本人が楽になるのなら推し進めるべきだと思うが、ものの理解の仕方などの正解が曖昧な部分で当事者を抑圧することはあってはならない。また自閉症は境界線がグラデーションになっていて、場面によって障害の度合いが変わったり診断を受けていなくても生きづらさを感じる人がいたりするだろう。ニューロダイバーシティの話があったが、ジェンダー研究におけるクィア理論のように「誰もが当事者」という意識が広まり各々が自分にあった環境やものの見方を探るようになれば良いのではないだろうか?現在の学校教育は画一的で会社でも規格的な人材が求められているように感じるが、面倒でも一人ひとりに個別対応可能なようなシステムが必要とされているのではないだろうか。(工学部3年)

 

近年は異様なまでに「生きづらさ」を社会の既存の常識や価値観の抑圧だとばかり指摘して、「個性」に切り替える動きが奇妙な広がりを見せているような気がしてならない。もちろん、本人の特性を何も理解せずに、型にはめられた「定型発達」の枠からはみ出しているからという理由だけで社会のコミュニティから糾弾したり排除したりするのは早急にやめるべきである。しかし、本人の「やりづらい」というメッセージ捨象し、全てを「素晴らしい」と一括りにしてしまうには、あまりにも社会的仕組みが追いついていないのではないか、と考えている。今回の授業では、ASD障害について、医学的認知と社会的認知の双方向から捉え、どのようなアプローチが最適かをディスカッションしたが、最適解を導くにはまだ社会自体の発達を促す必要があると痛感する。その中で、支援の仕組みを考える側がどれだけ当事者意識を持つことができるか、そのためには仕組み作りの中でどうすべきかを重点的に考えることが必要だと感じた。単純な問題ではないからこそ、とりあえずの正解を追い求めて、根気強く柔軟に、既存の制度に対峙するべきではないか。(文学部4年)

 

ASDの2つの特性としてのアレキシサイミアと不確実性への不寛容(Intolerance of uncertainty)の相乗性について。前者は自らの感情の認識・知覚・表現が苦手であるという特性を指すギリシア語由来の言葉である。別の表現に拠れば、自己に対してサルトルの言うような「半透明の意識」を欠いた非-間主観的な特性である。ASDにおいては社会的コミュニケーションの障害が代表的な特性として指摘されるが、アレキシサイミアという特性を踏まえて統合的に考えると、ASDは自らと異なる他者だけでなく、「自らをも含む他者」の感情を認識することが難しいという特性を持つと理解できる。そして、他者の感情が不確定であるということ自体が不確実性への不寛容と結びついて不安を生じさせていると考えられる。そもそもコミュニケーションとは無限に不確定的なものであり、普段は個別の状況や雰囲気によってその不確実性が縮減されている。ASDの特性はそうした不確実性の縮減を困難にするばかりか、不確実性への不寛容自体が特性に含まれるため、二重に不安を感じやすいと考えられる。(教育学部3年)

 

Neurodiversityという考え方は,言うは易し行うは難しだと講義を通じて感じた.確かに「性同一性障害」が「LGBTQ」という言葉に置き換えられ,彼らの特性が「障害」ではなくなったように,現在発達障害と呼ばれているものも一つの個性として受け止めていこうとする考え方には非常に共感ができる.しかしどんなに社会の受け止め方が変化しようとも,彼らが定型発達者と比較して社会生活を送りにくいことに変わりはない.そこを無視して「障害も一つの個性だ」という言説のみが広まると,「個性なのだから自己責任だ」という逆に不寛容な社会になってしまう.それを防ぐためには,当事者の意見を丁寧に把握し,必要な支援や政策を当事者目線で実現していく必要がある.一口に当事者と言っても様々な意見があるだろうし,当事者間で不公平が生じない制度設計も必要になってくる.よって現在よりも多くのコミュニケーションが求められるだろう.diversityというものは何らかの完成形があるわけではなく,同じ世界に生きる人たちの生きづらさを包摂しようとする無限の努力だと言えるのかもしれない.(工学系修士2年)