第4回

 

 

奈良一秀(新領域創成科学研究科 微生物生態学)

「自然界にあふれる生物間共生」

ほとんど全ての動物や植物が微生物と共生することで生きているように、自然界には全く異なる生物が互いに助け合って厳しい環境を生き抜く例が数多くあります。こうした共生関係は長い生物進化の過程で生み出された巧妙な仕組みですから、そこには我々が社会で生きていくうえで役に立つ知恵がたくさん詰まっているのではないでしょうか。

 


参考文献

① Smith SE, Read DJ (2008) Mycorrhizal Symbiosis 3rd edition. Academic Press

② 重定南奈子, 露崎 史朗 編 (2008) 撹乱と遷移の自然史―「空き地」の植物生態学.北海道大学図書刊行会

③ 川北篤, 奥山雄大 (2012) 種間関係の生物学―共生・寄生・捕食の新しい姿. 文一総合出版

 

予習資料

参考文献②より、奈良一秀 (2008) 「菌根菌による植生遷移促進機構」

 

講義後情報コーナー

受講者のレスポンス抜粋

人間など1つの生物が、他の多くの生物の恩恵を受けることで生きていることは漠然と認識していたが、腸内に生息する生物の数が個体の細胞の数を上回るというのには驚いた。人口的な都市空間の中で暮らしていると人間以外の生物の存在は感じにくく、遭遇するとしても一般的に「害虫」といわれるようなものが殆どで、他の生物のおかげで自分が生きることができると実感しにくいということを改めて感じた。また、企業広告でエコを訴えているものの中には必ずしも正しいと言い切れないものが少なからずあることにも危機感を覚えた。

 

グループ・ディスカッションのテーマでも「共存」という言葉が使われていましたが、生物学的な「共生」と互いを認め合いながらともに暮らす「共存」というのは、一見同じようにも見えるが大きく異なる概念であることというのが興味深いと感じました。

 

講義を受けて初めて、菌類が森林の形成の根幹であるということを知りました。これまでは「空気中や地中にたくさんいるらしい」という程度の認識だったので、生物の共生というポイントからも、考えさせられる話でした。現在は人間の過度な活動のせいで大量の生物が絶滅しております。この人間の活動を「傲慢」と見るか、「人間も生物の一種として生きているのだから自然だ」と見るかによって、今後の環境保護活動は変わっていくな、と思いました。

 

森の多様性や他生物の生きる権利の重要性を知っても、私たちは当事者意識が湧きにくい。私は先日東北に2週間滞在し、畑を荒らす猿やクマと「何も知らない」愛護団体への思いを現地の人が語ってくれたばかりで、現実味を感じた。「『生きるため』という森林伐採や他生物の駆除も、長期的な視野で見れば人間の損になる。だからやめるべきだ」という理屈は非常に筋が通っている。しかしすべての人が必ずしも、一部の知識人や余裕のある人たちのように遠い将来のことまで考えられる訳ではない。解決には「多様性の大事さ」を主張するだけでなく「破壊する(弱い)人たちに寄り添うこと」も不可欠なのではないかと、感じた。

 

地球は我々人間だけのものではないので、人間の富、利便の追求と、生物の多様性保持の一定の線引きをする必要がある。しかし、環境によいと思って開発された洗剤がむしろエコではないという例もあり、人間の開発のどこまでが環境への影響が少ないのかを決めるのは難しい。また、種が絶滅した時の影響は絶滅してからでないと表れないことも、人間の行動を制約する際の難しさの原因の一つになっている。しかし、私たちは森林の恩恵なしに生きて行けないため、難しいなりにも最大限、環境保持の努力をする必要がある。環境への影響を自然科学分野で研究し、政策や法などによる対策を社会科学が担うといった、分野を横断した対応が重要だと思う。

 

ディスカッションでは生物に権利があるのか、人間の利益を基礎に生物の価値は評価されるのかという話をした。動物の権利などの議論はあるが、こうした議論には違和感を覚える。人間は文明と技術を発達させた種ではあるが、まだなお自然の中に生きる一つの生物種であり、神の視点で他の種の権利を論じたとしても否応なく我々は生きるために他の生物を殺している。理性のみで生物の権利について論じても、生物としての人間の実践が伴わないのでは意味がないだろう。木を伐らなくては森を焼かなくては生きていけない発展途上国の人々に生物には権利があると説くことは、ライオンにシマウマの生存権を説くことに等しい。