第1回 【初回拡大スペシャル】

*5,6限続きの拡大回です(4:40~8:10)。

*履修者の方へ:6:20以降の参加は任意です。

 

 木下直之 (東京大学人文社会系研究科 文化資源学)

「ゴミと宝物・本物とニセモノ」

東京大学に文化資源学研究室が誕生した時、私は「文化資源」という耳慣れない言葉を「資源ゴミ」にたとえて説明しました。13年が過ぎた今日では、資源ゴミという表現は後退、ゴミと資源物とをはっきり分けて収集する自治体が多くなっています。ここには、誰が両者を見分けるのか、という問題ばかりでなく、そもそもゴミとは何かという問題があります。多くの場合、ゴミと認定される直前も直後も、物品それ自体は何ひとつ変わっていないからです。もちろん、ゴミの話ではありません。価値判断、すなわち境界線の話です。ゴミ屋敷や放射性廃棄物の話もしたいけれど、大英博物館で始まったばかりの「春画」展にちなんで、芸術か猥褻かという古くて新しい境界線から話を始めます。 

 

 秋山聰 (東京大学大学院人文社会系研究科 美術史学)

「聖なるモノと俗なるモノ ― 西洋中近世における聖性付与の諸相」

西洋中世、聖人の聖遺物は人々から篤い崇敬を集めました。美術がキリスト教文化において確固とした地位を獲得するに至った一因は、見た目にはゴミとも襤褸とも区別がつかない聖遺物の価値を、人々に視覚的に納得させるのに役立った点にあります。身元の怪しげなモノが聖性を獲得したり、聖遺物が聖性を失ったりする過程を、美術史学の立場からみてゆきたいと思います。

 


参考文献

【木下先生より】

・木下直之『股間若衆—男の裸は芸術か』新潮社、2012年。

 

【秋山先生より】

・青山吉信『聖遺物の世界』山川出版社、1999年。

・秋山聰『聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形』講談社、2009年。

 

 

予習資料

秋山聰『聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形』(講談社 2009年)より第一章

*履修者はCFIVEから閲覧できます。

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◇法学部第二類(公法コース)学部3年
まず、ごみや遺品に着目をして研究をしようとお考えになったこと自体が驚きでした。多くの人間が同じような色眼鏡をかけて世界を見ている中で、異なる視点から意外なものに焦点を当てられる問題意識が大切なのだと思いました。

 

◇文学部言語文化学科フランス語フランス文学専修学部4年
新鮮だったのは、聖遺物そのものだけでなく、それを被う聖遺物容器にさえも価値が付加されていくことだ。そう考えると、虚と実が混じるというか、価値とはそもそもどこに所在を求めていいものなのか、揺らいでくる。グループワークでは受講生自身の宝物という観点から価値を見直したが、「極私的な領域における物語」「一定規模の集団で認められた物語」に大別されたと思う。

 

◇文学部行動文化学科社会学専修課程学部3年
もし私が、授業の中でも取りあげられていた英国の海岸に展示された数十体像に、 それが一つのアートだという予備知識を持たずして出会ったとしたら、 私はそれらの像を「作品」としてではなく「ゴミ」だと判断・評価してしまうかもしれない。(中略)「作品」と「ゴミ」のような二つの領域の間に境界線を引くためには、何よりも受け取り手の知識や教養が大事なのではないかと今回の講義を聞いて思った。判断・評価の前提となる知識がなければありとあらゆる領域が混沌とした状態で混ざり合い、境界を設けることなど不可能なのだと感じた。

 

◇経済学部金融学科計量経済学学部3年
聖性が接触により伝わるという発想は、言ってしまえば小学生が嫌いな同級生に触れた手を友人に擦り付けて「菌がうつった」と騒ぐのと似ていて、人間の考えることは大差ないのだなあ、と感心した

 

(以上)