野崎 歓(文学部 仏語仏文学)

「メディアの相互作用:文学と映画をめぐって」



予習文献

  1. 『映画とは何か(上)』 アンドレ・バザン (著), 野崎 歓, 大原 宣久, 谷本 道昭 (訳) 岩波書店 (2015) より第1章「写真映像の存在論」, 9-24.
  2. 『文学と映画のあいだ』 野崎 歓 (編) 東京大学出版会 (2013) より野崎歓 (著)「文学と映画のあいだ:文学から映画へ、映画から文学へ」, 1-21.

 

  ※履修者には書籍・論文を貸し出します。詳細は初回授業でお伝えします。

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

 小説はある程度完結した一本のストーリーとして作者の世界がそのまま映し出されている可能性が高い一方で、映画化までこぎつけられるような漫画はその人気故に、編集者や出版社の都合による編集が入る可能性が十分に存在する。それ故に、漫画の方が読者からの人気を保持しつつも統一された世界観を維持するために、その世界観というものが多角的に捉えられ、検討された上で、作り上げられている可能性が高い。 つまり、漫画においては画像イメージが強い影響を受ける一方で、ストーリーや世界観については幅広い解釈が可能なようになっている。しかし小説においては、画像イメージについては読者の広い解釈が可能な一方で、その世界観については作者固有のものがあり、なかなか解釈の幅を広げることは難しい。(法)

 

作家が作り出した絶対的な「原作」があり,それに対する「派生作品」があるのではなく,原作と呼ばれる作品も,形而上の「何か」から原作者が感じたものを彫り出した派生作品の一つでしかないのではないか。そして作者以外の作家は,最初の作品(原作)からその「何か」を抽象し,それを別の媒体(映画や小説など)を使って再度具体化させる。そしてその「何か」もその作家により絶えず変容していく。いわば,各々が観念的な「原作」から具体的な作品を書き取り,また「原作」もその作品により再帰的に書き換えられていく(アニメ化の声優の声で原作小説が再生されるように)。(法)

 

映画は写実性に基づいている分、より「本物」 に近いものの再現に価値がおかれていると思った。本物に関しては、1回目の音楽の講義でも扱われたが、芸術における本物とメディアの関係が興味深い。溝口作品のように原作のテーマを増幅するなら理解できるが、では、なぜ原作に自分の主張をプラスした作品を作り、受け手はそれに対して不満を抱いてしまうのか? 主張があるならばオリジナルで作ればいいと安易に考えてしまうが、それは映画表現の製作コストが原因なのだろうか。映画→文学のノベライズは低コストの小説ゆえに誰でも作れるからと数/評価が少なく、文学→映画の場合、他人の作品を借りないとコスト面で厳しく表現しにくいのか、と考えた。(文)

 

野崎先生は「宗教が求心力を失い、写真技術が登場したことで、人間の視覚化への欲望が亢進した」と指摘されていました。ところで、いわゆる「心霊番組」には赤外線写真や高速度撮影が捉えたとされる「心霊」が数多く登場します。「心霊写真」は (実際の真偽はさておき)、 「見えない『心霊』を見たい」という視覚化への欲望と、「写真技術は(肉眼では)見えない『心霊』を見せてくれるかもしれない」というメディアへの欲望が絡み合いながら、心霊写真登場の素地が整えられていったような気がします。人口に膾炙した「心霊」現象や「心霊」番組をある種の文化に見立てることも不可能ではないと思いますが、その文化を支えているのは、人間がもつ視覚化と反復への欲望なのかもしれません。(文)

 

読書における登場人物への共感は、本に書かれないその人物の過去や未来に思いを馳せさせる。そしてその一種の空想は本に書かれた細部の表現や、細やかな心理描写に基づく。故に映画化された作品では、その登場人物に対して、まず視覚的な違和感を覚えると共に、その物語の展開の差異は、自身が築いてきたその人物のストーリーにも裏切りをもたらす。そう言ったことが原作の映画化に対する不思議な嫌悪感を生むのだろう。一方で近頃映画化される漫画、小説の多くは、細やかな表現や心理描写よりも、インパクトやストーリー展開の妙で読者を惹きつけるタイプのものが多いため、前述の嫌悪感は起こりづらいのではないかと感じた。(経)