村本 由紀子(文学部 社会心理学)

「社会的感性の造形:“自己と他者”という問題をめぐって」



予習文献

  1. 『(人文知3) 境界と交流』 熊野 純彦, 佐藤 健二 (編) 東京大学出版会 (2014) より  村本由紀子 (著) 第1章「『自己と他者』という問題をめぐって」, 23-41.
  2. 『木を見る西洋人 森を見る東洋人 思考の違いはいかにして生まれるか』 リチャード・E・ニスベット  (著), 村本 由紀子 (訳) ダイヤモンド社 (2004) より         第3章「西洋的な自己と東洋的な自己」, 第4章「目に映る世界のかたち」, 第5章「原因推測の研究から得られた証拠」, 61-153.


  ※履修者には書籍・論文を貸し出します。詳細は初回授業でお伝えします。

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

他者の目に映る自分の代表例として,「母」が登場するのは非常に興味深い。教育心理でしばしば言われるように,生を受けたヒトははじめ母という存在を通して世界と接することになる。前言語期における「世界の限界」は「母の限界」であるわけだ。ヒトに固有の人格が生来的に備わっているかは定かではない(個人的には反対したい)が,人格を一つの函数と見れば,子は一次的には母の影響により人格関数を形成する。前言語期を脱し外部の他者と接するようになると,他者に映る存在としての自己を見てとるようになる。そのとき相手の人格函数が我々には解明できないために,自分の行為に対する返答はしばしば予想に反する。そこに反射的に立ち現れる「他者の中の自己」と「自己の中の自己」との齟齬が,自己の人格函数を変容させる。そこには他者→自己の作用のみならず自己→他者→自己という作用があろう。この再帰的な側面が人格の涵養・陶冶の本質ではないか。(法学部・第1類4年)

 

西洋的な相互独立的自己観—東洋的な相互協調的自己観のモデルが示すように、どうやら自己と他者との関係のありようには「文化」による差異がありそうだ。しかし、村本先生の結語にもあったように、「文化」による差異が<ある>ことを、そのまま「文化」が差異を<決定する>というふうに読み替えてはいけない。後者の立場に拠る主張の一例は、まことしやかに囁かれるいわゆる日本人論だろう。少なくない日本人論がそうであるように、差異の要因を文化や社会に還元することで、一方では日本「文化」や「社会」の固有性が賞揚され、他方では日本「文化」や「社会」の異質性が批判される。程度の差こそあれ、こうして指示される「文化」や「社会」は固定化された静的なものとして捉えられがちだ。しかし、他者や社会を媒介に自己が成立し、その逆もまた然りであることを想起するならば、オリエンタリズム批判やポストコロニアリズムを引くまでもなく、「文化」や「社会」はダイナミックなものであることは明らかだろう。(文学部・宗教学宗教史学3年)

 

他者や社会に媒介されずに定義しうる「自己」はあるかという問題を、一人になった状況など具体的にイメージするなどして考えてみたが、そのような「自己」はないと思った。周囲にある物を触れるなどして他の物との違いというのは認識できるかもしれないが、そのような身体感覚と「自己」を感じるというのは異なるように思われる。「自己」を認識するには、他者や社会との違いを認識し、それが言葉によって自分に取り込まれることが必要ではないか。言葉なしに思考したり何かを説明したりすることは難しいように思われる。また、自己と他者との関係の有り様に「文化」による差異はあるかという問題について思ったのは、実験によって国や地域によって差異が生じるということがわかったとしても、その差異がそもそもどこから生じるのか、どの要因が最も大きい影響を及ぼすのかを説明するのはとても難しいということだ。大小様々な「文化」が重なりをもって存在するうえに、研究者もその文化から逃れられないために要因を想定するときに限界が生じるだろう。(文学部・社会学3年)

 

自己は社会を通して認識され、形成され、変容する。この当然の事実を、本講義を通じて改めて認識することとなった。その背景には、自己という存在の絶対性をどこかで信じていた私がいる。私は「私」であり、他がどうであるに拘わらず確固たる存在であると、言わば独我論的に想像していたこともあった。しかしこう考える私の感性も、私を取り巻く他者とそれらから成る社会によって造形されたもので、私の感性、思考、ひいては私という存在そのものは、社会的文脈の中で生み出された相対的なものに過ぎない。別段それが問題であるわけでもないし、そもそも自己を取り巻く社会が存在しない世界で自己の存在を確かめた所で、虚しいだけである。それでもやはり、私という存在を、偶然に生まれ落ちた場所の文化や、偶然に周囲にいる他者によって形成された社会的産物と考えるのには、ほんの少し寂しさを覚えるのである。私とは何であろうか、改めてわからなくなった。(経済学部・経営学科4年)

 

今回の講義では、「自己」があるためには「他者」や「社会」の存在が少なからず関わっていることを改めて認識させられた。チンパンジーの鏡像認識実験では、生後まったく他者に触れずに育った個体は鏡に映った自分の像を「自分」とほとんど認識できないという事例が紹介されたが、この隔離されたチンパンジーには、「自己」と「他者」という概念が存在しない、あるいは必要とされないのだろうか。しかしながら、この個体の育った環境にはほかのチンパンジーがいなくとも、食糧やその他ある程度の設備はあるはずで、だとすれば「自己」と「外部環境」を区別する必要は生じるものと思われる。ここで、いわゆる「他者」というは何なのかという疑問がおこる。たとえば生物で、自分と似た種族や形態のものは「他者」といえるだとか、一般に「環境」や「物体」と「他者」の間を隔てるものが何かあるのだろう。隔離されたチンパンジーにとって、自分の鏡像は他の「モノ」であったのか、「者」であったのか、あるいはまた別の存在としてとらえられていたのだろうか。今回は自分にとって何かが発見される、解決されるというよりは、新たな問いにいくつも突き当たる講義であったと感じた。(人文社会系研究科・文化資源学修士1年)