髙岸 輝(文学部 美術史学)

「生成されるランドスケープ:風景画と地理感覚・世界観の相剋」



予習文献

  1. 『室町絵巻の魔力―再生と創造の中世』 高岸 輝  (著) 吉川弘文館 (2008)
  2. 『中世3 (岩波講座 日本歴史 第8巻)』 大津 透, 桜井 英治, 藤井 讓治, 吉田 裕, 李 成市 (編) 岩波書店 (2014) より 小川剛生・髙岸輝 (著) 「室町時代の文化」のうち二「造形と視覚」, 288-314.

  

  ※履修者には書籍・論文を貸し出します。詳細は初回授業でお伝えします。

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

ルネサンスといえば人文主義など、人々の関心が神から俗世へと移った時代であり、自然現象を宗教でなく科学で説明する機運が高まった時代としても知られています。そうした背景の中、まさにダ・ヴィンチのような人々の精密な自然観察・研究により実物の正確な描写がなされ、風景画の素地が整えられたのではないでしょうか。対して東洋では自然を神聖視する宗教観が強かったり、禅僧の修行の一環に水墨画があったりと、風景を主題とした絵であっても、自然科学よりも寧ろ宗教との関わりで捉えやすいように感じます。そのため実在しない自然物・構図の絵が存在しえたのではないでしょうか。(文学部・社会学4年)


確かに、風景に入れ込んで、惚れて、気持ちを託して、絵を描くというのは、普遍的な事象ではないですよね。子どもが初めて描いた絵が風景画というのは考えにくいですし。ワークショップでは洛中洛外図を見ていて子どものころ好きだった『ウォーリーを探せ』を思い出しました。人にフォーカスしているように思いつつ、やはりそこには独特の空間構成があって、それを楽しんでいたように思います。地と図の反転を感じます。 ワークショップで見たように、「東京」の描き方で、価値観を含むパーソナリティーや、正確などの心理なども分かりそう。臨床にも使えるかも??(文学部・社会学4年)


現代の私たちは、子どもの頃から「絵を描く」といえばごく自然に風景画も描いてきた。しかしながら、昔はそれは決して当たり前ではなく、絵画とは生に関するメッセージを伝えるための明確な手段だったのだと思う。それまで背景にすぎなかった「風景」を前面に押し出すことで、かえって人間の営みが浮き彫りになってくる向きもあるだろう。 「洛中洛外図」は臨場感あふれる生き生きとした人びとが描かれている。風景を主題として描き、風景そのものに意味を持たせようとすることは、少なくとも初期には、人間の営みをかえって強調する役割も果たしたのではないだろうか。(文学部・日本史学3年)


西洋においては、風景画は16世紀ごろから発達した比較的新しいものだったという事実に驚いた。中国においてはもっと早くから風景画が発達していたということも知り、その地域差に興味をもったが、西洋においても中国においても、絵画が誰によって、誰に依頼され、何を目的として描かれたかということが大きく影響しているのではないかと思った。また、特に西洋の絵画の推移について、当時どのような科学観があったかということの影響も大きいのではないかと感じた。地動説から天動説へと移り変わったように、宗教的な価値観と結びついた科学観から経験的な科学観へと変わっていき、それが人びとに少しずつ浸透していくという時代のなかで、絵画における主題において、宗教画だけでなく風景画が受け入れられるような素地ができていったというように考えることもできるのではないか。(文学部・社会学3年)


ヨーロッパにおける風景画は描く主体を額の外に置き客観的な画家として描くが、日本における風景画は自らも額の中に存在するような構成で描かれる。そこでは風景としての自然だけでなく人々も風景の一部のように、絵画の中に溶け込んだ形で描かれる。西洋と東洋でどちらが優れているというかという評価はし難いが、明確な違いがある。洛中洛外図屏風では、町民の生活の有り様がまるで風景かのように描けれ、そのことによりかえって町民の生活がありありと眼前に浮かびあがってくるような印象を受ける。西洋の、外から描くという構図を取るのに比べ、描く主体である自らの視点を額の中に入れる構図により、よりリアルに伝わってくる作品となっている点で洛中洛外図屏風は優れている。(農学部・森林環境資源科学 3年)