第4回 【拡大回】

*5,6限続きの拡大回です(4:40~8:10)。

*履修者の方へ:6:20以降の参加は任意です。

 

伏見憲明(作家)

「境界線の快楽」

私が新宿二丁目でやっているゲイバーには、ゲイはもちろん、女性も異性愛の男性も、他の性的マイノリティもやってきます。ですので、実質ゲイの割合は半分くらいなのですが、私はゲイバーの看板を降ろそうとは考えません。「境界線」を引くからそこに排除や差別も生まれますが、しかしそれがあるからこそ快楽や関係も生まれるからです。

 

赤川学 (東京大学大学院人文社会系研究科 社会学)

「家族とは誰のことか-家族の境界をめぐって」

人間と動物、男と女、異性愛と同性愛、モテる人とモテない人、…。私たちの身体にも様々な<境界>線が引かれている。その中でも、「誰が自分にとっての家族であり、誰がそうでないか」もまた、私たちの社会を構成する、重要な<境界>となっている。しかしその<境界>は時代により、地域により、あるいは階層により、揺れ動く。社会学の立場から、この<境界>の変動について論じてみたい。


 

 

参考文献

【伏見先生より】

・伏見憲明『欲望問題』ポット出版、2007年。
・伏見憲明『ゲイという経験』ポット出版、2004年。
・伏見憲明『性という[饗宴]』ポット出版、2005年。
*特に『欲望問題』ポット出版、2007年

 

【赤川先生より】

・山田昌弘『家族ペット:やすらぐ相手は、あなただけ』サンマーク出版、2004年。
・J.F.グブリアム、J.A.ホルスタイン(中河伸俊、湯川純幸、鮎川潤訳)『家族とは何か:その言説と現実』新曜社、1997年。

予習資料

コイトゥス再考#20 伏見憲明「越えがたきジェンダーという背理」『VOBO』

・赤川学「家族である、ということ」太田省一編著『分析・現代社会』八千代出版、1997年、97-118頁。

 

*こちらの資料はCFIVEの「教材」コーナーにアップしました(「越えがたきジェンダーという背理」はリンクがついていますのでこのままページに飛べます)。ファイルを開くのに必要なパスワードについてはCFIVEの「掲示板」をご覧ください。

 

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◇文学部思想文化学科倫理学専修課程 学部3 年

性の問題については講義でも述べられていたように、オネェタレントの出現などによって自明のものとなり、今では新鮮味が無くなってしまっている。そのため、今では表面的に議論されたりはするものの、驚きをもって真剣に議論することが少なくなってしまった問題であるともいえよう。その分、当事者である伏見氏による講演はすごく新鮮であるように思えた。今回の講演を受けて、いままで自分はsex とgender の区別は非常に明白でわかりやすいと思っていた信念が崩れたように感じる。つまり、「自分らしく」といってgenderに束縛されないような生活を送ろうとしても、それは性的魅力としてのsexuality をも失うことになってしまう。このことは非常に興味深かった。

 

◇文学部行動文化学科社会学専修課程 学部3年

境界線ゆえの快楽というのは今まであまり聞いたことのない考え方で、なるほどと思いましたが、やはり境界線ゆえに生じる苦しみもあるかと思います。そこで境界線をなくすのではなく、境界線ゆえの苦しみ、差別をなくしていくということが必要になってくるわけですが、では制度の整備以外に他に何ができるのかということがどうしても気になってしまいました。女性や同性愛、その他マイノリティの差別問題は以前に比べればゆるやかになったとはいえ、木下先生のおっしゃるような「なんとなくの差別」というものは制度面だけでは解消しづらいのでは、と思います。それを具体的にどうするかのヒントが少しほしかったなと思いました。

 

◇人文社会系研究科文化資源学研究専攻 修士1年

高校卒業までの 14 年間、女子校に通っていました。女子しかいない中で、そこにはうっすらと「男子的な役割の女子」と「女子」に分かれていたように思います。数人の先生以外に「男子」がいないという空間では、ほとんどのことを女子がやることになるので、必然的に役割分担がされていたようです。結局、そこには性別以上の役割としてのgender があったように思います。高校までは男子であった私の友人たちも、卒業を機に女子としての役割を果たすようになったりして、それは環境に左右されるのかもしれないと、今では考えています。

 

◇工学系研究科建築学専攻 修士2年

境界とは、線を引くだけではなく「領域」をつくるものだと感じた。「女性かどうか」の線引きは、身体やホルモン的な部分で「女性」と「その他」に線引きすることができる。しかし、「性別」という領域の中で「男性か女性か」という線引きをするとなると、本来性別には二種類しかないはずなのに、精神論や性同一性障害などを考えるとその領域の中で線を引く事は、途端に難しくなるのである。 複雑な関数になってくる領域だと、境界線ではなく、境界面、が必要になるのかもしれない。