白岩祐子

(人文社会系研究科 社会心理学)

「犯罪被害者のための正義:人間と法のダイナミズム」


予習文献

  1. 河原理子,1999,『犯罪被害者―いま人権を考える(平凡社新書)』平凡社.

講義後情報コーナー

白岩先生からの読書案内

• 野田正彰,2005,『喪の途上にて:大事故遺族の悲哀の研究』 岩波書店.

• 小西聖子,2001,『犯罪被害者遺族:トラウマとサポート』 東京書籍.

• 岡村勲,2007,『犯罪被害者のための新しい刑事司法:被害者参加制度と損害賠償命令制度』 明石書店.

• 高橋シズエ・河原理子,2015,『犯罪被害者が報道を変える』 岩波書店.

• いのちのミュージアム,2009,『いのち・未来へ』 アートヴィレッジ.

• 宮地尚子,2011,『環状島=トラウマの地政学』 みすず書房.

履修者のレスポンス抜粋

◆ 法学部の講義では「判例」としてしか触れることがなかった出来事のウラにある遺族の不条理な悲しみに無知であったことを恥じるとともに、その無知を改めることができたという点で先生の講義を受講できて本当に良かったと思う。刑事訴訟、およびその調査は手続きにより処理される無機質さがある。それは効率性、安定性を求めれば大切なことであり、刑事事件という人の琴線に触れやすい出来事を「案件」として処理するためにも必要なのかもしれない。ただやはり不条理に遺族および関係者を精神的に痛めつけること、またそれに対し無責任であることは断固として許されず、行政官を志す身としてはこの学びを他の場所でも活かすことのできるよう、制度の向こう側に居る人を常に意識することを心がけていきたい。高校生の頃にこの授業があれば、僕は検事になっていたと思います。それほど揺さぶられました。この授業をしてくださりありがとうございました。(法学部・3年)

◆ 日本における司法が、少しずつ変わってきてはいるものの犯罪被害者を救う力にはほとんどなっていなかったという実情を知り、暗澹たる気持ちになった。また、少しメインテーマからはそれるのだが、第三者の誹謗中傷が犯罪被害者を苦しめているという事実に驚かされた(加害者側への誹謗中傷が昨今目立つのと、善良な市民が善良な市民である被害者を攻撃するという構図が思い浮かびにくいためである)。第三者の事件関係者への攻撃は自分は加害者とも被害者とも違う、悲劇に巻き込まれ得ない人間だと思い込むために行っているもので、今も昔も変わらずあるものだと私は推測しているのだが、先生はどうお考えか、また、第三者による攻撃をなくす方法はないものだろうか、機会があればお聞かせ願いたい。(薬学系研究科・修士1年)

◆ 犯罪の被害者の権利がほとんどなく、気持ちに配慮されていない制度。起訴される事件はほんの数パーセント。その事実を知って、愕然としました。検察は、被害者を守ってくれるものだと勝手に思い込んでいたからです。その事実が、偶然を通して少しずつ改善されようとしている。私は、偶然が端緒となって物事がより良い方向に動いていくことを良いことだと思います。なかなか変化したくないと思うのが人間です。上記のような事実を知ってさえいない。ましてやきっかけがなければ制度を変えるなどというハードワークはできない。物事が変わっていくきっかけに偶然がある、ということは必然的なのではないかと、ディスカッションを通じて思いました。一方で、誰もにそんな行動力、発信力があるわけではありません。行動しやすい、小さな声にも耳を傾ける世の中を作っていくことができれば、政策、制度はよりよい方向に向かっていくと思います。(教育学部・3年)

◆ 私は、犯罪被害者支援ネットワークでインターンをしており、今回の講義内容は非常になじみ深いものであったが、ディスカッションのテーマは考えたことがなかった。最後の講評で白岩先生もおっしゃっていたが、驚いたのはチームのメンバーの意見が偶然について好意的な見解を持っていたことだ。端的に言えば「偶然であってもしょうがない」や「人が現状の価値観から抜け出すことは稀有な出来事がない限り難しい」などの意見であった。しかし私はその意見には賛成できない。被害者の方は今も見えないところで悲しんでいるし、彼らが偶然救われるということは結果としては良くてもプロセスに問題があるからだ。およそ、好意的な意見を述べる人は「被害者」を自分とは関係がない、実態の伴わない概念のようにとらえており、当事者意識が感じられていないのだと思う。被害に「まだあっていない」人が、いかに自分事として問題をとらえていけるかが今後重要だと思う。(法学部・3年)

◆ 地下鉄サリン事件の解剖の問題は授業で聞くまで知らなかったので非常に衝撃的だった。知らぬ間に愛する者の体を解剖された被害者遺族の気持ちを考えると本当にいたたまれないが、解剖した側としてもやむを得ない状況であったことを考えると構造的な問題であり、その構造自体の解決というより如何にして傷ついた方のケアを行うかということが肝要な点なのではないか、と思った。最後のディスカッションのテーマについては、この場合、何を(どこからどこまでを)偶然と捉えるのかということが難しく感じられた。考えようによっては偶然に見える出来事も起こるべくして起こっているのでは、と考えた人は自分以外にもいたようだった。社会のあり方としては何かが大きな問題になる前に細かな要因、遠因を拾い上げて対策していければ良いのだろうが、それはあまりにも理想であり具体的な展望にはたどり着けなかった。(文学部・4年)

◆ 地下鉄サリン事件や交通事故、あるいは暴行などによって近しい関係にある人間に死なれた「被害者」たち。彼らにとって裁判とは、その人がなぜ死んだのか、加害者はなぜ殺したのかなどという、事件の「真実」を知るための唯一の方法だからという言葉が心に残った。被害者を動かすのは、講座のテーマ「偶然」との関係で言えば、親しい人物の突然の死をどうにか了解できるようにするため、多様でありうるさまざまな説明から、はっきりとした否定できない「必然」の論理を選びとりたいという希求なのだろう。(人文社会系研究科・博士課程)

◆ グループワークで感じたのは、偶然注目された事件は個別特殊なものであり、それをあらゆる人に適用される普遍的な制度に昇華する時には緊張感が伴うことである。各班の意見で出ていたように、ある事件が制度変更の契機になることは重要である。同時に、そうした特殊な事件に基づいて制度を議論することで、結果としての制度変更も事件の内容に引っ張られてしまう可能性は十分ある。そうなれば、またどこか他のケースに適用上の問題が生じる制度になる。具体的な事件から始め、普遍的な制度・政策設計につなげて行くところに政策形成者の力量が出るのではないだろうか。一方で、制度は抽象的であり、なんらかの具体的場面において問題が生じざるをえないことを考えれば、制度設計でなくその適用を柔軟にしていくことも大切だと思う(各班の発表では否定されていたが)。実際に現場の行政官や裁判官は、そうした作業を日々自分の裁量の中で行っているはずである。(経済学部・4年)

◆ 刑事訴訟は報復のための制度ではないため、被害者が訴訟に関与しようとすることには自分は否定的だったが、被害者側の状況を今回初めて全体的に聞き、必ずしも感情的に復仇を叫んでいるのではなく、当事者として非常に切実な問題があるのだということに合点がいった。被害者側当事者にとって制度がいかにあるべきかという問題意識が薄いことについて「なぜ今まで誰も気づかなかったのか」という指摘があったが、恐らくそれはおかしいと思う人がいても、影響力のある問題提起がなされない限り制度が変わらないように社会ができているからだと思う。制度の公正・公平・安定性を確保するためにはそれはそれで重要なことなので、むしろ変えるべきは改革への提言をし易くすることなのではないか。被害者が発言をすることで大きなバッシングを受けることを覚悟しなければならないという話があったように、日本では言論の権利に関して教育が足りていないように思う。(法学部・4年)