蓑輪顕量

(人文社会系研究科 インド哲学)

「偶然と必然は表裏一体か・・・仏教者の見た世界」


予習文献

  1. 前田専学,2016,『インド思想入門ーヴェーダとウパニシャッド』春秋社.
  2. 羽矢辰夫,1999,『ゴータマブッダ』春秋社.

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◆講義でインド思想・宗教からの引用を読み、グループワークで議論する中で、人事と天命がいかなる関係にあるのかということを考えた。我々が日常の中で「人事を尽くして天命を待つ」と言ったとき、どのようなニュアンスを持っているだろうか。人事の及ばない領域があり,それは天にまかせるという感覚があるのは間違いない。しかし人事と天命が分離され、分業的な関係にあるとは感じられない。人事を全力で尽くさなければ天命はなく、一方で天命があって初めて人事が結果をもたらす、そのような人事と天命の有機的関係をその意味に含むように思う。朝日講座の諸講義を通して、人間の「意志」とそれではどうにもならない偶然的な「状況・出来事」の両者が、密接で時に不可解な関係にあることが強調されてきたが、今回の最終講義もこれにつながる。偶然と必然が交わる場所としての人間の意志や行動、これに焦点をあてて自分なりに偶然について考えていきたい。(経済学部・4年)

 

◆仏教における「偶然」の考え方は、仏教と関わり合いの深い日本にいながらも全く知らないことであったのでとても興味深かった。加えて、考えさせられたのはグループワークのテーマ2、「偶然と考える」ことと「必然と考える」ことの意味、である。思うに、この問いは特に自分にとって悪いこと、それも子供の死のような、自分に一見帰責しない悪い物事を偶然と捉えるか必然と捉えるかという点において重要性があるだろう。個人的にはそのような物事を必然と捉え自己を反省するようなことはしないが、世の中には必然であったのではないか(自分の行いなどが悪くてそうなったのではないか)と考える人が事実として多くいる。先生がおっしゃっていたような、反省や謙虚の観点からどっちが「良い」のかということを考えるのも面白いし、場所や時間(臨終の話もあった)、人の個性でどこまで変化するのかというのを宗教学や心理学の観点から考えるのも面白いと思った。(法学部・3年)

 

◆インドでは、どんな結果にも必ず原因があるという発想があり、あらゆる事柄は業の結果となり、偶然という観念はない。しかし、これにより未来は既に決まっているという運命論には陥らず、現在の行いによって未来は変えられると仏教は説く。中国の伝記や、日本の説話では、偶然はないとする立場の考え方のほうが多く、偶然と思われるものも、実は宿縁のあったものとして受け止める場合が多い。グループワークでは、ある事象を偶然として、あるいは必然として考えることにどのような意味があるのかについて議論されたが、個人的には、偶然/必然の議論には、時間概念なしに語るのはあまり意味が無いと思われる。どのような事象についても、それが起こってしまったならば、原因があるかのように考えられ、それゆえ必然的なものだとみなせるからである。結局のところ、偶然に晒される未来に恐れず立ち向かうという心構えが生きていく上で大事だと思われる。(文学部・4年)

  

◆これまでの朝日講座の授業や学生間のディスカッションを振り返ると、偶然と必然は捉えようによってはどちらも良い効果と悪い効果を発するもので、考えすぎると区別をつけることが難しく、頭の中でこんがらがることが何度かあった。そのような経験を経て、蓑輪先生の授業を受けたことで、偶然と必然が表裏一体であることの一端を理解することができたように感じた。偶然と思えることこそ、これまでの行いの上に成り立つ必然という解釈は美しいと感じた。

授業の中で、仏教に関するいくつかの知識、考え方を先生が丁寧に解説してくださり、仏教に馴染みがない学生として大変興味深かった。日本人としてはもう少し教養が必要かもしれない。インド哲学から学ぶことは多いと感じたが、難解な部分も多かった。今回の授業を受けて、インド哲学という分野を知ることができて良かった。(工学系研究科・修士課程)