頼住 光子

(人文社会系研究科 倫理学)

「日本思想における“不易”と“流行”」


予習文献

  1. 頼住光子『正法眼蔵入門』(角川ソフィア文庫)2015年 より、序章・第1章~第4章

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◆ 日本思想における不易流行というテーマで、聖徳太子や道元、伊藤仁斎の思想について、紹介しながら講義をされた。その後の議論で、これら「昔」の教えが現代に通じるのかという問いがあり、とても興味深かった。答えは出ないが、これはそもそも文学部の存在価値を問う議論と等しかったと考えている。(…)従来の学問が、これから生きていくうえで役に立つのか、勿論知らないよりは役に立つに違いないが、それを学んでる以上、それがどのように役に立つのか自分なりに言葉で説明できる必要があると感じた。(文学部・日本語日本文学専修課程3年)

 

◆ 今日聞いた日本の伝統思想は、どれも小さいころに聞いた昔話の本質的な要素だったと思うので、知らぬ間に刷り込まれているのかなと思った。ただ、グループワークや最後の先生のお話でもあったように、この思想が成り立っていた時代と現代とでは、社会的環境などは大きく異なるので、伝統思想をどう現代社会に取り込んでいけばいいか考えることが大切だと思う。そのためには、自分と他者の違いを理解することが大切であり、対話が必要だ。それは、前提条件の違い抜きに千年以上前から変わらない、人と人とのつながりの本質なのだろう。(法学部・3年)

 

◆ 私たちのグループディスカッションで、現代が仏教思想に学ぶことについて話していた時に、聖徳太子のいうような「和」に必要な、協調的な姿勢と議論における、議論の方のうまくいかなさを話し合いました。一つに、自分の対立意見を受け入れられないこと、もう一つに議論の場以外での関係性のこじれを気にしてしまうことがあげられました。仮にそれらの二つが解決されたとしても、議論の決着をつけるにあたって、何らかの力関係で結論が出てしまうのではないかという懸念があって、それらは仏教思想が無限なるものを共生を支えるものとして前提にしているのとは現実問題として違うという指摘がありました。そこで、先生がおっしゃっていた、そのまま適用するのは無理であるかもしれないけれど、そういった現代の問題を、過去の思想を学ぶことで相対化して捉える機会になるということで、自分たちの時代を見つめ直す機会になった回でした。(経済学部・3年)

 

◆ 変わらない伝統思想にある共生の考え方を学びましたが、その一方で変えるべき共生の在り方に関しても考えることができました。現代社会では、自分と相手は異なることを理解することはできていても、どう異なるのかを具体的に知らない場合が多いと感じます。それが誤解や不和につながっているのではないでしょうか。具体的には性別による働き方の差や、在日外国人に関わる問題があると思います。また、私のグループではディスカッションが上手くできない人が多いという議論になりましたが、小学校の頃から自分と相手の距離を保ちながら意見を交わす議論を学ぶ機会があると良いと思いました。同調圧力がある状態や、自己主張ができない状態は必ずしも健全ではないと思いますし、相手を尊重しながら自分を損なわない態度をとれるよう心がけたいと感じました。(文学部・考古学専修課程4年)

 

◆ 文献によるアプローチというのは、そのような学問を修めている以外の人間からすると、なんとなく過去のことばかり注目しているように思いがちだ。しかし、過去の思想を紐解くことで、現在や未来に生きるヒントを見つけ生かしていく学問なのだと気がつくことができた、貴重な講義であった。昔も今も、人間は一人では生きていけないのである。(法学部・3年)

 

◆ 共生という言葉自体は普段の生活でも耳にすることが多いが、その根本的な意味について再考するきっかけになり、有意義であった。共生の概念を根付かせるためにはそれ自体を声高に唱えるだけでは足りず、自他一如や和の概念を共に習得することが効果的であると感じた。特に現代社会において、ボーダレス化の進展に伴い排外主義的思考、そして要素還元主義がより強まっているように思える。多様性が身近になりつつある現代においてこそ要素還元主義から共生の概念へのシフトが必要不可欠だと考えた。しかし、近代以前における社会では共同体が狭く寺社での集会や村での集会で思想を説き浸透させる機会にも恵まれたが、現代のように情報媒体が多様化し、共同体も拡大・多様化している中では思想の浸透は困難を伴う。まずは学校教育で軽視されがちな倫理教育を再重要視し、そして先人の思想の有用な部分を現代に適応させる形で導入することが効果的であると考える。(法学部・3年)

 

◆ 共生を支える基盤が「無限」であるという指摘は非常に示唆的だった。あらゆる資源が無限であれば、争いは起こりえない。しかし、現実にリソースは有限で、そのために争いが起きる。その争いを裁定し、個々の利害を超えた道徳を築くために無限なるものが要請されるのだと思うが、神や自然といった今までの「無限なるもの」は解体され、不安定となっているのが現在だと思う。この200年ほど無限なるものとして扱われてきたのはナショナリズムだと思うが、将来的にはこれがテクノロジーに置き換わると思う。AIなどを人間の上位の存在と規定し、様々な有限の資源をめぐる争いを、機械が解決していく時代にシフトしていくのではないだろうか。一方で、そのような価値観の変容に抵抗を示す勢力もあり、より伝統的な神や自然といったもの取り入れる人々も一定数増えてくるのではないかと思う。(文学部・社会学専修課程3年)