川幡 穂高

(大気海洋研究所)

「気候学・環境学・資源学地球と人間のつながり―環境と資源と社会―」


予習文献

・川幡穂高「地球温暖化問題とエネルギー資源問題―今世紀の課題」『地質ニュース』641号,2008,pp.17-27

・川幡穂高・鈴木淳「海洋酸性化と将来の海洋環境」『月刊海洋』42号, 2010, pp.1-7

・川幡穂高『海洋地球環境学―生物地球化学循環からよむ』東京大学出版会, 2008

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

人間と地球のつながりについて学んだ。地球の環境問題の余波は世界各地で起こっているが、世界レベルでの合意形成は難しく、危機意識を持つ人とそうでない人との温度差もあることが問題だ。環境悪化の進行は超高速に進み、人類が適応できるスピードを超えてしまうとも言われている。これからは学問分野での分野横断型の連携や、学問と実社会、国と国などの一層の連携が求められてくる。しかし、これらの指揮者になるような先進国では、アメリカのパリ条約の脱退や日本の化石賞受賞に見られるようにこの問題に鈍感な人がいるのも事実だ。そもそもリーダーの意識を変えるにせよ、”我慢”しなければならないということは持続可能ではない。経済や暮らしが良くなることを善とする資本主義経済の中で環境問題に取り組むためには、スピーチだけではなく、新しいビジネスモデルに着手することが大切だ。そのために人間が頭を使って、手を取り合うような地球に暮らしたい。(法学部3年)

 

今回のテーマは私の専攻とかなり近かったので自分の勉強という視点でも非常にためになった講義内容でした。地球温暖化という地球規模の問題を解決するにはやはり国境を超えた地球規模での対策が不可欠だと思いますが、その合意形成の難しさは勉強しながら常に感じているところでありました。私も先生が最後の方でおっしゃっていた通り温暖化対策に経済的インセンティブを与えて資本主義経済の枠組み、いわばwin-winの関係式に落とし込む必要があると考えていて、例えば排出量取引制度といったものが今後の地球温暖化対策の鍵になっているのではないかと考えています。これを“つながり”の視点から考えてみても、やはり共通の問題意識を抱えてみんなで我慢するというようなつながり方は理想的かもしれないけれど非常に弱くて脆いものだと感じていて、もっと分かりやすい例えば経済的メリットによるつながりの方が意識はどうあれ結果はついてくる、強固なつながりになり得るのではないかと考えています。(工学部3年)

 

小学生のとき「石油はあと40年で無くなる」と教わってとても衝撃を受けたことを思い出した。電力を生産するのに必要な石油がなくなるということは、私たちが現状の生活を維持していくことができなくなるということだ。お父さんとお母さんもいつかは死ぬということに気づいたときと同じくらい、恐怖を感じた。

それ以降はせっせと節電・節水(水も有限の資源だと教わったため)にはげむようになり、家族に煙たがられていたほどだったのだが、いつからだろう、さほど節水も節電も気にしなくなってしまった。私が初めて「石油残りわずか言説」に触れたのは10年前だが、自分の周りが世界の全てだったと思っていた少女が、私の家族だけで節電節水しても何も変わらないということに気づいてしまったということか。

こんな感傷的な回想に浸っている場合ではなく、私含め世間の危機感のなさは本当に問題だ。もう人の意識を変えるとかではなく、資本主義システムの中に環境に利するようなメカニズムを組み込むしかないという先生の主張は非常に納得感があった。技術の発展にも期待しつつ、私たち文系の人間ががんばらねばと気合が入った。(文学部3年)

 

今回の講義の課題は地球という規模の大きなものを扱うため、講義もディスカッションも付け焼き刃ではうまくいかないという感想を抱いた。政府によるトップダウン的な規制を、という提案をしたが、国家という存在のためにそれですらうまく行っていない現実があることにこの問題の根深さを感じた。ただ、前提として炭素循環による環境問題や、それによる人とのつながりであったが、その前提から離れ、今後のエネルギーを窒素に変えていくことで問題は解決に向かい得ると思った。私の先輩の研究室が窒素の常温下におけるアンモニア化に成功し、さらにエネルギーを取り出すことの研究も進んでいるようである。実用化にはまだハードルがあるだろうが、窒素によるエネルギー供給が現実的になってきたといえる。しかし窒素に代替されたとて、問題は起きるだろう。炭素循環とは別の地平でのことだろうか。いや、地球の資源を食い物にする以上は炭素を扱うのと本質的に違いはない。私たちは永遠に続くイタチごっこに取り込まれ続けないといけない。(教育学部3年)