第4回 一ノ瀬正樹(東京大学大学院人文社会系研究科教授)

「死者とは誰なのか―震災犠牲者を想いながら」

 

学生へのメッセージ

2011年3月11日の東日本大震災では、津波震災によって、死者・行方不明者あわせて約2万人という、多数の犠牲者が発生してしまいました。動物の犠牲も多いはずです。今回は、この近年最大の災害犠牲者に焦点を合わせる形で、「死者」というのは果たして誰のことを指しているのだろうか、という(一見奇妙な?)問いを考察してみたいと思います。根底には、「死者」とは定義的に非存在なので、「死者」の悲しみや苦しみについて語るということには、哲学的に見て、特殊な様態があるはずだ、という理論的見方があります。こうした見方を検討しながら、津波震災の犠牲者に向き合うことの意義を見届けていきたいと思います。拙著『死の所有 -死刑・殺人・動物利用に向き合う哲学-』(2011年、東京大学出版会)第5章に基づいて話をいたします。

 

 

参考文献

一ノ瀬正樹『死の所有 -死刑・殺人・動物利用に向き合う哲学-』(2011年、東京大学出版会)


講義後情報コーナー

●履修者のレスポンス抜粋

 

◇文学部日本史学3

「死」には大きく分けて主観的「死」と客観的「死」があると思う。主観的な「死」は死ぬ本人が意識する「死」、つまり経験不可能な「死」そのもの及び「死」直前やそこに至る苦痛・恐怖であり、客観的な「死」は死者以外の人の視点からの「死」、つまり他者が主観的「死」を外から見るときの「死」である。「死無害説」はあくまでも主観的な「死」の中でも経験不可能・認識不可能な「死」がその当人には認識不可能ゆえに「害」ではないと主張しているのであって、客観的な「死」をもとにした哀悼、つまり他者が死者の主観的「死」について想い、哀悼する行為を否定するものではないのではないか。

 

法学部第2類4年

(東日本大震災に関連して)「死」とくに名前も知らない何千人、何万人の震災での「死」について、なぜ自分が胸を傷めているのか、悼んでいるのかというふとした疑問に(今回の講義は)答えてくれるものでした。このように考えると、無数の死の大きさに悼んでいるのではなく、一つ一つの死に悼み、そしてそれは重なった大きさに胸を傷めているのではないかと考えた。

 

工学系研究科社会基盤学M1

・剥奪説論者の展開する議論の中では、奪われた未来において享受するものはもっぱら利益であるとし、損害を被る可能性を無視していることが気になった。しかし、違和感は覚えなかったので、私達は未来に対してはポジティブな考えを本源的に持っていると云うことなのではないかと考えた。

・Personは共鳴的な存在として捉えられるということだが、「知覚できなかった存在」に対してはどのような位置づけがなされているのか。Personではないということは悼むことはできないということか。

 

文学部美学芸術学4年

「死」の最初の主体にとっての「死」とは?やはり、死が訪れた「当人」はやはりその人にとって特別な「死」と経験したのであり、そういった「死」という経験の特別姓とはという問に回答できるだろうかという疑問が残った。