阿部誠

(経済学研究科 マーケティング)

「『偶然』と人間の合理性:行動経済学からの示唆」


予習文献

  1. 依田高典,2010,『行動経済学―感情に揺れる経済心理(中公新書)』中央公論新社,第1章~第3章.

履修者のレスポンス抜粋

 

◆人が客観的な利得(損失)に対してどれほどの主観的な満足の度合いを得るかの関係性を示したプロスペクト理論は、人間の精神の根幹の傾向を表していると感じられました。トヴェルスキーとカーネマンについて調べたところ、フレーミング効果についての実験報告がありました。これは同じ期待効用であり、同じ内容であっても、肯定的な表現と否定的な表現の違いによって、人は前者の場合にリスク回避的になり、後者ではリスク志向的というものです。例えば600人中「200人助かる」という表現と「400人死ぬ」という表現の違いは、同じ内容であっても、人の意思決定に影響を与えます。人には破滅を回避したい、否定は受け付けたくない、などの傾向が普遍的に存在するのでしょうか。そして人が相互に連関を持って社会を営むのだとしたら、社会においても否定的な表現を避けるなどの傾向が存在するかと思われます。たとえばニュースや株価の表現などにです。(文)

 

◆「経済学部は株で儲ける方法を学ぶ所ではない」というのは良く聞く言辞であり、実際そのようなアカデミズムが果たすべき役割の重要性は無視できないだろう。しかしその一方で現実は変化し続け、理論的研究だけに目を向けていると学問は現実から乖離した題目に成り下がってしまう。そういう意味で今回の阿部先生の専門とする行動経済学の価値があるように思われる。現実のマーケティングが「人間の直感を裏切る」ことによって利益を出す仕組みを構築しつつある現在で、理論一辺倒ではなく、そのような人間の「不合理性」を計算に入れる行動経済学は学問の現実の分析能を向上させている分野だと言えるだろう。かつてサルトルは「現象学を学べば今あなたの目の前にあるカクテルを哲学する事ができる」という言葉に衝撃を受けたというが、私たちは行動経済学を学べばさっき見たテレビCMについて経済学することができる、という事実に衝撃を受けることになるのだ。(文)

 

◆主流派の経済学の合理的な人間像に対して修正を迫る行動経済学を踏まえて、実際のマーケティングでの応用事例を考えたグループワークは興味深かった。授業で紹介された「参照点」「損失回避」「主観的/客観的確率のずれ」といった現象が、現実の商売の中に、おもしろいほど見て取れた。これは重要なことを我々に提示している。すなわち、現実の人間の商売や消費活動は、人間の意思決定に対する鋭い洞察を含んでおり、人間像を修正する上での源になるということである。経済学はシンプルな人間像を立て、そこからの演繹によって現実の複雑な経済活動を把握しようと務めている。社会科学のアプローチの一つとして有効なものである。一方で現実の人間の意思決定のあり方を軽視し、経済学が設定した人間像をむやみに信奉しがちである。心理学の助けを借りながら人間像の経験的修正をすすめる行動経済学が、経済学内部で定着したことは大きな前進だと感じた。(経済)

 

私は前期教養学部及び経済学部にて完全な合理性を仮定した消費者理論などを学んできました。その仮定には当然ある程度の妥当性がありますが、それでも完全には人間の経済活動を正しく把握出来た事にはなりません。その観点から、行動経済学が果たした役割は大きいと考えます。行動経済学の誕生が経済学の歴史に与えたインパクトの大きさと行動経済学が未発展の学問であり今後成熟していく事を鑑みるに、この先の行動経済学の発展が楽しみでなりません。授業のワークで身近な例を行動経済学の観点から捉えるというものがありました。私自身は中々思いつきませんでしたが、各グループの発表と先生からの講評を聞き、本当に様々な事が行動経済学と密接に結びついているのだと感じました。これからは、行動経済学的な観点を常に持ち、世界をその新しい視座を通じて捉えたいと思います。(経済)

 

ホモ・エコノミカス(超合理的・超自制的・超利己的)の否定から人間の非合理性を確認する手続きには感服した。その他、リチャード・セイラー氏の〈価値関数〉やトベルスキーの〈確立加重関数〉もグラフで図示されていて、分かりやすく人間の非合理性を知ることが出来た。
講義の中で一番新鮮だったのは、全くの偶然による不確実な事象について、人間の認知が偏っているということだ。大きい確率で手に入る利益を過小評価し、小さい確率で起こるリスクを過大評価する人間性には、慎重さ、延いては、損をすることへの恐れを感じた。「得する人、損する人」(日本テレビ)という番組名が象徴する様に、情報社会の進む中、人々は様々なメディアを通じて自分が得をするように、つまりは、損をしないようにと日々情報収集に邁進しているように感じる。そのように損をしないよう常に考え続ける姿は「合理的」と言えないだろうか。確率に対する主観的視点というものは確かに偏っているといえよう。しかし、合理的であるからこそ、〈確実〉に失敗を回避するために確率の数字にさらに自身で重みづけを行っているのではないだろうか。科学的には〈合理的〉ではないが、その行動は〈合理的〉に生きようとする人間の志向の結果であるように思う。(文)