第6回 

 林良博 (東京農業大学農学部バイオセラピー学科 動物学)

「動物たちの「しあわせ」と人間中心主義の狭間で」

 

人類は、肉が好きな雑食性の動物ですが、単に食対象としてだけではなく、様々な用途に動物を利活用してきました。日本人は長年にわたり畜肉食を慎んできた世界でも稀な人類集団ですが、戦後の食生活の欧米化により、経済的にみると畜産業は米産業をはるかに上回る産業になりました。世界的に見ても、開発途上国の富裕層を中心に肉食率が高まり、人類はかつてないほど多くの動物を犠牲にしております。一方、死の間際の「お迎え」にペットが現れることが少なくないことは、動物と暮らすことによって得られるこころの安らぎが、いかに大きなものであるかを示唆しています。人が「しあわせ」を実感するのは、自分ではなく、他人を「しあわせ」にしたと感じたときではないかとわたしは思いますが、「他人の中に人類以外の動物が含まれるのか」どうか、皆さんと一緒に考えたいと思います。

 

 

 

参考文献

・林良博『犬が訴える幸せな生活』知恵の森文庫、2002年。
・林良博『検証アニマルセラピー』ブルーバックス、1999年。
・ハロルド・ハーツォグ『ぼくらはそれでも肉を食う』柏書房、2011年。

講義後情報コーナー

◇文学部西洋史学専修過程3年

動物をペットとすること自体が悪であるという話がでたが、これは食肉などの批判もせねば、ダブルスタンダードであると思う。つまり、動物の愛玩にしろ、食肉や搾乳、実験動物などにしても、動物を商品化していることには変わりがあるまい。…この講義では、私は答えを出せない。どうしても人間中心主義、もっといえば自己中心主義を抜けだして考えることができないように思えるからだ。ただ、極楽浄土の回で話されていた通り、自己が自己たりうるために他者が他者であることを害してはならない、ということを考えるのであれば、少なくとも無闇な殺生は為されるべきでないし、動物が(生物学的だとしても)快適に生存できるようにすべきである、とも思う。

 

◇工学部化学システム工学科3年

猫の飼育は可。…そもそもこの問題は、○○の理由で猫の飼育は可であるというように理屈をつけて解決する問題ではなく個人の価値観の問題である。飼いたい人には飼う権利があり、それと同時に批判したい人には批判する権利がある。議論によって妥協点を見つけるような問題ではなく、前者の方が多数であるから社会的に猫を飼うということが認められているのだと思う。猫の飼育に反対する人たちの意見を汲むならば、猫の飼育が悪いとするのではなく、猫の飼育は認めその上で猫の飼育によるデメリットをいかに減らすかに問題をシフトすべきだと思う。

 

◇新領域創成科学研究科国際協力学専攻修士1年

動物の幸福が語られるのが人間社会の中での言説にとどまる限り(そして実際、そうでしかあり得ないのであるが)、その幸福は、「人間側」の多様な価値観の反射物として語られるに過ぎないことは確かである。
例えば、可愛いネコやイヌが残虐に取り扱われることは、多くの人間から批判を浴びることであるが、それはそのような場面を「見たくない」または「想像したくない」という人間の欲求が生むものであり、真にネコやイヌの「幸福」が考えられている結果ではない。そして、動物の愛護の声の裏側にある人間の欲求は、美しい慈悲の気持ちであるかのように昇華されるのである。私はこのことに大きな違和感を覚える。
私たちは人間であり、人間社会で生きている。人間が動物の幸福を語る限り、それは人間の価値観の押しつけを超えない。人間が人間であり、動物が動物である限り、私たちはこの限界を超えることはできない。私たちができるのは、せめてその限界に自覚的であることである。そのような自覚的で謙虚な姿勢が前提として無ければ、動物愛護の声は、無意味で自己欺瞞な、むなしい響きしか持ちえないのである。

 

(以上)