三浦俊彦

(人文社会系研究科 美学芸術学)

「偶然の論理学:可能世界と主観確率」


予習文献

  1. 三浦俊彦,2017,『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』二見書房.特に第7章
  2. 三浦俊彦,2017,「神視界の人間的彩色 ベイズの定理」『現代思想』2017年3月臨時増刊号,pp.196-9,青土社.

また、参考文献として

  1. 三浦俊彦,2014,『思考実験リアルゲーム―知的勝ち残りのために』二見書房.第9章

講義後情報コーナー

スライド資料・配布資料

当日使用した資料について、以下から閲覧・ダウンロードできます。

http://green.ap.teacup.com/miurat/html/20171011.pdf(配布資料、履修者のレスポンスに対する補足が最後のページにあります)

http://green.ap.teacup.com/miurat/html/asahi.pdf (スライド資料)

 

履修者のレスポンス抜粋

◆私の専門は文学であり、日ごろは作品を分析して発表などをしているが、文学作品を分析する際に学部生のレベルだと、しばしば結論として何やらぼんやりとした思想をテクストから抽出したり、あるいは自分の中のゴールに向かって恣意的に解釈を枉げるということが起こりがちである。(もちろん経験と知識を積むと少なくなっていくのだろうが)それに対し今回の講義で扱った(記号)論理学に基づいた可能世界論はどうだろう。真である命題から数式を用いて論証を積み重ねていく論理学はレベルの低い論証に比べ非常に強度が高いだろう。さらに根本的な部分では、文学の論の進む先が一種の直観によって定められてしまうのに対し、論理学においては取り得る選択肢を原理的にはすべて考慮することになり、主体の思いもよらない結果を導き得るだろう、このことに私は大きな可能性を感じた。(文学部・4年)

 

◆今回の二封筒問題のグループワークにおいての議論は、各方面の専攻の人が集っていたことで興味深い展開があった。それは、工学系の学生は数学の確率論を用いて実際に計算してこの問題にアプローチし、その一方で文学系の学生は説明文の解釈における懐疑点からアプローチしたというものである。結果、両者の解法には差が生じお互いの主張を議論したが、なかなか合意することはできなかった。このような一つの課題に対し、自分の専攻分野の知識を生かして各方向からアプローチしそれを討論するという経験は、自学科ゼミ等のグループワークでもあまり獲得できないものであり、また相手の方策を理解するために久々に理系の確率的思考を思い出すといった楽しさもあった。個人の見解としては、封筒を開封しその金額を具体的に知ったという時点でそれまで未知の状況に対して可能世界の数は大幅に減少するためこの両者の前提が異なる点が問題ではないかと考えた。(文学部・3年)

 

◆今回の授業を受けて、私は「シュレーディンガーの猫」を思い出した。すなわち、箱を開けるまで青酸カリで死んでいる猫がいる世界と生きている猫がいる世界がある、というところが、ある種可能世界の可能性の重なりに似ているのではないだろうかと思った。事象の可能性を濃淡で表すところは非常に興味深いと思ったが、コペンハーゲン解釈としても捉えられるので、ある意味夢物語のような気もしてくる。

私は論理学が苦手で、現実感覚と感情に左右されがちな「非論理的人間」であるから、今回の二封筒問題でも「なんとなく気持ちが悪い」という感覚をもとにワークに参加していた。提示された有力な回答のうち、二番目(哲学者の好む、論理学的な解釈)のものは個人的にすっきりするものだったが、言葉遊びの域を出ないのではないかとも思った。

私は論理学に対して懐疑的である、と今回の授業で改めて思った。(教育学部・3年)

 

◆授業を通して、知る前と知った後では世界の見え方、自分の存在する世界そのものが大きく変わることを学んだ。何かが決定するたびに、論理空間は収縮すると先生はおっしゃっていたが、2封筒問題を通して、封筒の中身を知った後に、知る以前の前提で考えることに無理が生じ、大部分がリセットされて、また違う可能世界が現れる、すなわち、論理空間は全体でみると収縮しているかもしれないが、部分的には膨張しているように感じた。収縮することで、より微細な可能世界が浮かび上がってきただけとなのかもしれないが。期待値や確率についての知識が足りないことや、限られた時間の中での授業であったため、最後の解説を聞いてもあまり理解できなかった。最初に出てきたら交換すると決めた金額が何度行っても出てこなかったら、どうなるのか。そもそもその金額の設定方法は何か。疑問は多く残った。(工学系研究科・修士2年)

 

◆講義を受けて印象的だったのは、同じ現象や状態が、ある人には必然であり、同時に他の人には偶然であるということである。「二封筒問題」において、プレイヤーが片方の封筒を明けた時点で、胴元には両封筒の合計金額に関しての可能世界は1つであり、合計金額は必然である。一方でプレイヤーにとっては合計金額の可能世界は2つ存在していて、そのいずれの金額であるかは偶然である。物事の必然/偶然は見る人の主観に依存している。これは渋滞学の回に西成先生が「渋滞は、原因を知っていれば必然、知らなければ偶然」とおっしゃっていたのと重なる。

こうしてみると、日常生活において偶然と必然の境界が曖昧であり、主観的であることも納得がいく。ある家に生まれた偶然、ある人と出会った偶然、ある病気になった偶然、これを時に私たちは「さだめ」や「運命」として解釈し受け止める。講義の内容と日常の「偶然/必然」の感覚が繋がったと感じた。(経済学部・4年)