納富 信留

(人文社会系研究科 哲学)

「西洋古代が抱えた不安」


予習文献

●マルクス・アウレリウス『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫、2007年

 

 

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

マルクス・アウレリウスは、皇帝としての生涯を戦争に捧げた人物であった。後に『自省録』と名付けられるこの文章群も、ゲルマン人との戦いの宿営地において、空いた時間を縫って執筆されたものである。いわば、彼は、ゲルマン人という恐怖を正面に見据えながら、同時に、自己の中の不安と対峙していた。

無形の不安との対座において、彼の紡ぎ出す言葉は、意志に溢れ、故に簡潔であり、同時に断片的であり、そこには、厳密な論旨の跡も、見受けられない。不安が、論理に則って襲ってくることは、ないのである。不安は不条理で、不条理故に、不安なのだ。

こうした不条理との無限の邂逅において、彼は常に大なるものへの寄与、即ち「宇宙」(星)「神」「自然」、また同時にもうこれ以上細分出来ないものへの寄与、即ち「元素」「現在」を徹底した。つまり、可視化された無限と不可視の有限の確実性を、自己の条理の拠り所としたのである。疑いようのない条理からの視点を、内面化することこそ、不条理=不安に対する彼の唯一の矛であり、自己から漏れ出る不安への止血剤だった。

条理への潜水。息もつけない地上での日々に、彼はまさに、この海の中で呼吸し、生きていたのである。

(法学部 3年)

 

ローマ時代が「不安の時代」とされていたことは寡聞にしてはじめて知りました。

「不安」という言葉を、自分はなんとなく「安心」の対義語として捉えていましたが、安定や安寧の逆として捉えると、また解釈の幅が広がるように感じました。何にせよ、変化をいとうイメージは共通しているように思われます。

過去への不安として、授業で取り上げた例の他、「あのとき大学を受験したのは正しかったのか」のような、過去の決断への思いも含まれるのではないかと思いました。

最後にグループワークで扱ったマルクス・アウレリウス・アントニヌスの文は、不安をコントローラブルなものだと捉える姿勢が目立ちました。自身の意に反して戦わないといけなかった皇帝という立場ゆえのものかもしれませんが、現代の私たちに通じる、どうでもいいことで思い悩むなという発言は古来より大切にされていたものだと気づきました。聖書の「明日のことで思い悩むな」のような言葉を授業後に思い出しました。

(法学部 3年)

 

言語によって対象の解像度をあげることにより日常的な不安をかなり和らげることができると思うのですが、死といった事象に対してそのような手法が取れないことによって実存的不安が生じるという理解をしました。そのような不安に対して哲学的な方法を取るほかに、「科学的」な方法をもって問題に対処する流れがあると思います。たとえば臨死体験をした人の語りをもって死を理解しようとする、瞑想をしたときの人の脳の状態から宗教体験を理解しようとするなど。しかし、そのように生理学的なものに不安を還元しようとしても、実存的不安も言語化しきれないという意味で言語的なものであり、完全にはできないけれど言語化しようとする過程のほうに意味があるように感じます。実際、臨死体験の語りは意味を与えていたり、宗教体験と脳の状態の関係を研究した科学者が神経神学のような方向にいったりと科学の範疇を逸脱しようとする動きがあります。科学で解消できる不安もたくさんあると思いますが、科学の顔をして実際には解消できない不安を解消できるように迫ってくるものには気をつけるべきだと思いました。

(文学部 4年)

 

最近聞いた「ポジティブシンキング」を目指そうという自己啓発講座の中で、「ネガティブな気持ちや不安に苦しい時には、その気持ちや客観的に起こった事実を文字にして書いておくことが思考を切り替える上で重要だ」という話を聞いた。マルクス・アウレリウスの自省録はまさに戦場での不安な気持ちや感じたことを文字にし、あえて「汝は○○せよ」のような、自分から切り離した視点からの言い方をとることで、不安を自らから切り離し客観視することで不安と向き合うマルクスの姿勢の現れだと感じた。内容もだが、マルクスのとった「このような思いを書き残すことで不安と距離をとり、心的ストレスを軽減しながら不安と向き合う」という姿勢も、現代の不安社会を生きる我々にとって重要な学べることであると感じた。

自分がなんのために存在するのか、という根源的な人間の不安に立ち向かう思考のヒントはやはり哲学に大きく詰まっていると感じた。根源的不安は社会の結合力が弱まり、人々の所属が流動化、より個人化した時代にまろび出るものだと考える。所属の規範や思想が強ければ人はその生き方や意味を問うことはない。哲学は教科書からどんどんなくなっていき、軽視されてしまう傾向があるけれど、宗教的な支えが崩壊している日本において哲学は今こそ必要なものなのではないかと思う。

(文学部 4年)

 

自省録を記したマルクス・アウレリウスは後期ストア派の一人として数えられる。そこで私は後期ストア派という主義がどのようなものかを調べてみた。すると「自然に従って生きよ」という教えが根底にあることがわかった。この世はありとあらゆる物体・物質が自然科学の法則に従って動いている。それは我々で操作することはできないので、その論理体系を理解し、従って生きるということである。我々は人間社会に生きており、視野も限られているので、自然の中で生きているということを忘れがちだが、これを常に認識することで、自分を俯瞰的に見ることが可能だろうと思われる。というのは、私は自然科学を学んでいる際に考えていたことなのだが、周りの人間関係に頭を悩ませていても、それは自然の流れから見ればごくごく一部のことであり、巨視的に見れば些細なことに過ぎないのである。これから先「不安」と対峙することは避けられないが、大きな自然の流れに従って生きているということを意識することは何かしらの助けになるかもしれない。

(農学部 4年)

 

高校の世界史で「哲人皇帝」と習ったマルクスだが,『自省録』を読み通してみると,「哲人が書いた」というよりも「哲人であるために書いた」という印象を受けた.「人は宇宙の一部である」という実存的不安,「今を生きるしかない」という時間に連関した不安,「悪人が悪事を働くことを憎らしく思う自分の心を見直せ」という状況に連関した不安などは繰り返し書かれており,皇帝であるとはいえ一人の小さな人間が陥りやすいこれらの不安を書くことで俯瞰し,脱却しようという努力が見て取れた.グループワークでは「死が身近な戦場だから,未来に自分の名が残ることを夢想して心を落ち着かせる効果もあったのではないか」という意見が出たが,刹那的な戦場だからこそ自分の手に負えない未来を夢見ると足下をすくわれるため,ここにある今に集中しようとしているように私には感じられた.このように自分を客観視し,ありたい自分を意識し続けることは,現代で言うところのマインドフルネスである.そう考えると,現代に生きる我々がおよそ2000年前の『自省録』から学べることは非常に多いと思う.

(工学系研究科 修士2年)