第8回 松本三和夫(東京大学大学院人文社会系研究科教授)

「「構造災」を越えて―国策の失敗軌道をどう転換するか―」

 

 

学生へのメッセージ

言葉も、政策も、お金も現実に追いつかない。「天災」にも「人災」にも収まらない

「構造災」が起こっている可能性がある。新たな想定外を想定して、国策の失敗軌道を

どう転換するのか。社会学の視点から、ともに考えたい。

 


講義後情報コーナー

●履修者のレスポンス抜粋

 

◇工学系研究科建築学専攻M1

人災の責任を自然の災害として転禍する、「集合的無責任」――ナチュラリゼーションには前々から異和感を感じていたが(例えば、統計的事実として取り上げられがちな正規分布など)、何となく周りを見て「そうなのではないか」と納得していた自分がいたと感じる

  

◇文学部・言語学4年

無限責任の有限化というお話がありましたが、今回の原発事故においても責任のはっきりした所在が追求されないまま(電力会社に一方的に押しつけた形)ですが、社会構造が複雑な中で、どのような形で責任を配分するか疑問に思いました

 

◇文学部・日本史学3年

無限責任を有限化するということが非常に興味深かったのでできれば、その手法や問題点について話して頂きたかった。適切に処理したつもりの責任も、『じわり』型である限り途切れることがしばらくないと思われる

 

◇工学系研究科・社会基盤学M1

1937年の事故を事例として、構造災であるがゆえに、その責任の所在があいまいで、時には公と技術側でカバーアップが行われてしまうというご説明がありましたが、このことをふまえると、無限責任を有限化するためには、誰が主体となって行うべきなのでしょうか。

 また、1937年の事故では、史料が偶然残っていたために、真相が明らかになりましたが、福島の事故の真相が隠ぺいされる可能性もないとは言えないと思います。そのようなことを防ぐためのシステムというものは現在あるのでしょうか。さらにはそのシステムの信用性はどのように担保するべきだと思われますか