祐成保志

(人文社会系研究科 社会学)

「退却の作法」


予習文献

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講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◆インターネットと交通手段の発達がもたらした社会構造の転換によって、現代社会において、個人は趣味や願望等の何らかの個人的価値観を他人と共有する機会をかつてないほどに見つけやすくなった。

 具体的には、特に若い世代で親しまれるアニメが典型で、個別的な物語やキャラクターの指向毎に、普段は接点のない人々が集まって、二次創作等を通じて交流を深めるような例がある。職業活動の側面でも、たとえば地方を主とする農業の後継不足の問題は、若い世代がより自由に個人的志向に基づく職業選択が可能となったことにも因っており、「したいことを仕事にする」というような言葉が流行りを超えて受容されつつある。これらを可能にしたのは、物理的存在の介在を直接に必要としないがゆえに膨大な情報・機会提供を実現するネット空間の発達であり、またその先に生じる物理的移動の障壁を大幅に下げた交通手段の発達だろう。現代人は、個人の指向に基づいた行動選択の裁量が広がり深まったことで、指向性の一致する他人と邂逅し、自らの個人的・具体的な思想や価値観が他人に受け容れられると感じられる門戸が広がった。対して減衰したのが血縁や地縁に基づく人間関係であり、これが「居場所の欠如感・喪失感」に繋がっていると考えられる。ネットで共有される意見や価値観は特定のテーマに関わるものが多く、全人格的に交流する機会は乏しい。「家」の構造の中では、構成員は個性の認定は埋没されがちではあったが、特定の実際的な役割を付与されており、それを遂行すれば全人格として存在理由が成立した。しかし先述のように個人の存在が台頭し、この社会構造が薄弱となったことで、人は自らの存在理由を自ら見出さなくはならなくなった。これにより生じた逃避・回復行動が所謂引きこもりや自分探しという現象ではないかと思える。
両者の間には表裏の関係がある。現代社会において、人はより個別具体的な思想や価値観に拠ってより明瞭に描かれた輪郭線を持った個人として認識されるようになった。このことで個人は細部な面において他人との合一を確認しやすくなった一方で、細部に関する自己理解が不明瞭な場合を含み、社会構造の観点におけるトレードオフの関係で、存在全体を前提とした承認や受容への願望は満たされないことが増えた。極めて単純化すればこのような構造ではないかと、第1回講義を経て考える。

(前期教養学部 2年)

 

◆1の例として、住む場所自体の相対的な増加がある。国土交通省のデータでは、日本の人口はすでに減少中で世帯数も2025年をピークに減少すると予測されている。他方、新設住宅着工戸数が借家・持ち家ともに横ばいから微増で、築年数の高い住宅も残っている。これより「ルーフ」としての居場所は見つけやすくなったといえる。2の例として、人間的なつながりの喪失がある。独身・一人親世帯の増加、共同住宅の借家や分譲マンションの割合増により、世帯内・世帯間での孤立が顕著になっている。つまり「ルーツ」としての居場所が欠如している。これに対し、地方に移住し空き家や古民家をリノベーションしたり、ルームシェアや3世帯同居を試みたりという努力がなされている。1と2は表裏一体の関係である。個別のニーズに従って住宅が提供されるようになれば居場所は見つけやすくなる一方、居住の自由度を増すことにもなり、土着性・地域性の喪失も意味する。

(教養学部 2年)

 

◆今回の講義を受けて、「居場所」の概念は自律的なシステムを環境の中から区別し、そこに物質的・精神的に「根を下ろす」という過程を経て成立するという理解をした。現代においては社会的な分業化と情報化の中で自分が物質や情報などを通してコミットできる範囲は格段に広がった一方で、自分の領域に外部の商品や情報が流入して自律性が損なわれ、本当の居場所と呼べる所が縮小したといえる。この流れに対抗する形で、最近では現代の生活の文脈と共存できる形で自律的なシステムを担保する営みが個人や地域のスケールで起こっている。最も明瞭な例として食を例に挙げる。都市は本来食料生産とは分離され、地方や海外に完全に依存することを前提としていた。そのため都市の食生活は生産と分離し実感を伴わない「切り身」の関係を保ってきた。最近ではこの関係を見直し市民農園や家庭菜園が増加し、自らの手で食料生産を行う過程を楽しむ営みが広がっている。

(農学生命科学研究科 生圏システム学専攻 修士2年)

 

◆技術革新が進み、インターネットや携帯端末が普及した現代では、掲示板やTwitterなどのSNS上で、気軽に趣味の合う人々などと繋がってコミュニティを形成できるようになり(1の例)、それはある種の居場所となった。しかし、そのような、時には顔や名前すらもわからないような、弱いつながりに立脚した居場所は、片方がほんの少し連絡を取らないでいたり、アカウントを削除したりするだけで消失してしまう脆いもので、生の拠り所とできるほどの強度を伴っていなかった(1と2の関係と変化)。つまり、もともと血縁関係の希薄化などにより現代に蔓延っていた居場所の欠如や喪失感を埋めることはできなかった。そこで、近頃はシェアハウスや地方移住による地縁的コミュニティへの参加(1の例)など、ある程度の身体的あるいは金銭的なコミットメントを伴った、真に居場所となり得るような強いつながりを求める運動が徐々に社会に広がりつつある。

(工学系研究科社会基盤学専攻 修士2年)

 

◆現代社会では技術の発展や豊かさの追求に伴い、個人が触れられる場所が多様化した。特に都市部では娯楽、商業施設などが溢れているし移動も容易になった。またインターネットを通じて人と関わりを持つ機会も増え、あたかも一つの人格が仮想空間上に存在しているような状況もありうる。こうした意味で居場所となりうる場所は身近で見つけやすいと言える。
一方、人々の生活は学校や仕事のように外部から規定された時間に縛られ、いつでもどこでも「何かをやらなくては」という焦りに追い立てられている。本来何もせずに心を安らかにできる場所としての居場所はこうして失われた。
近年この居場所を家や自宅以外の「サードプレイス」に求めるようになっている。以前は自宅が担っていた居場所としての機能を外部に切り離したのではないか。サードプレイスの多様な選択肢として現代社会の場所の多様性は役に立ち、居場所を取り戻す可能性を秘めているのだろう。

(工学部都市工学科 3年)

 

◆①「かつてなく居場所を見つけることが容易になった」

 ②「居場所の欠如や喪失の感覚が深まり、これを取り戻すための努力が静かに広まりつつある」

 

①例として、終末期医療を受ける患者の生き方が多様になったことが挙げられよう。病院で緩和ケアを受ける、あるいは訪問医療に頼りながら自宅で過ごすなどという選択肢の中から自分が最も安心して過ごすことができる形態を選べるようになった。一方で、全脳機能不全患者の延命や安楽死の可能性など今まで考察されなかった選択肢が登場し、人々は「自分らしい」生き方は何かなどのアイデンティティのゆらぎの問題を抱えるようになった。それに伴い、臨床倫理や生命倫理などの応用倫理の分野が現代において盛んに取り上げられるようになっている(②)。これらの変化は、急速な医療技術の発展がなされる一方で、その倫理学的考察が追いつかなかったことによると考えられる。倫理学的考察が今後十分になされていけば、患者の選択肢はより広がり、自分にとっての居場所の発見が促されるという関係にあるだろう。

(医学部健康総合科学科公共健康科学専修 3年)