真鍋 祐子

(東洋文化研究所 宗教社会学)

「つながりからみる韓国民主化運動」

予習文献

・富山妙子『アジアを抱く―画家人生 記憶と夢』岩波書店,2009

・李美淑『「日韓連帯運動」の時代―1970~80年代のトランスナショナルな公共圏とメディア』東京大学出版会 , 2018

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◆ まず授業の感想として、「つながりからみる韓国民主化運動」というタイトルだったが、民主化運動自体よりも「つながり」という方に重点がおかれていたため知識がなくとも理解しやすく、面白かった。グループディスカッションでは、テーマが「SNSが発達した現況を前提とする場合の、社会運動におけるアートの重要性・連帯の可能性」だったが、のっけから「アート」の定義について人によって齟齬が生じた。個人的には、論理や理性以外に訴えかけるものは全てアートとしていいのではないかと思っているため、お笑いなどかなり俗っぽい表現もアートに含むとして話してしまったが、そのへんの合意をとってから話した方が実りある議論になったのかなぁとは思う。また、私はSNSでは言語の壁を完全に打ち破ることはできないため、どれほど発達しても情報を伝える限界があると考えていたが、グループの人で言葉を必要としないものがアートだと言っている人がいて、その場合はSNSにおいてアートの力は重要だと言える。(文学部 人文学科 社会学専修課程 3年)

 

◆ 国内では抑圧されていた民主化運動が国外の活動家とトランスナショナルに連帯する過程を、アートを通して学んだ。光州民主化抗争で歌われた「五月のうた」はのちに「冬のソナタ」の挿入曲にアレンジされた。このドラマは日本でも人気を博したが、韓国では光州事件を想起させたのに対し、日本はフランスの原曲を想起した人がいたということが興味深かった。「五月のうた」はトランスナショナルに伝播しなかったのかもしれないけれど、民主化運動を経験している人たちは時代が下ってもその歌と当時の記憶がつながっていた。しかし映画や芸術作品などに隠されたちょっとしたオマージュが文化を共有していないものには受け取りづらいことも事実だ。間接的な表現には言語の壁を超えて普遍的な人間の感性に訴えかける良さもあるが、文化的背景を持ったものとして見ると一味違ったアクセントが付き、より趣深く感じられる。これからアートを嗜む時はそれが作られた文化的背景も理解しようと努めたい。法学部 第三類 3年

 

◆ 韓国民主化運動を題材に、社会運動における国を超えた連帯について扱う回だった。講義を聴いて、そもそも社会運動一般に関して、命を危険にさらしてまで外国から楽曲や絵画を持ち帰るなどの活動に携わる人が一定数いたことを興味深く感じた。自分の周りにそのような人は少なく、そのような活動を強制する、少なくともいまの私にとって異常に思える状況下であったのだろうと想像した。ある作品が作者不詳のまま広く知られることも例えば現代日本では珍しいように思えて、私が想像する作品が世に知られていく過程とは違った方法で浸透したのだろうと考えた。現代ではSNSが発達しているものの、SNSなしには存在し得ないアート、は思いつかなかった。しかし作者不明の作品を現地に届けることは容易になったと言えるだろう。SNSの普及がアートが関わる社会運動に与えたのは、本質的な変化というよりも流動性の高さ、状況が変化する速さなのではないだろうか。(工学部 システム創成学科 3年)

 

◆ SNSによる情報の拡散の可能性、それも国境を超えた拡散の力はとても大きいと思う。特に、アート作品の写真や映像は容易に拡散できるし、一度広がったらそれを止めることはかなり難しいため、社会運動を加速させる良い媒体である。その一方で、SNSでは興味本位で情報を拡散させる人も多く、そのいっときの話題性はあるが、社会運動を大きく進める連帯性を作り出すものになり得るかどうかは難しいと思う。アート作品自体も、もともとそのアートや問題に関心のある人がインターネットを通じてみれば、突き動かされるものもあるのかもしれないが、SNS上のアート作品の写真を見て、情熱がゼロ・無関心の状態から、社会運動をスタート・加速させる力があるのかは疑問で感じる。なぜなら、SNS上にはたくさんの情報に溢れ、それらが誤っていることも多々あり、それら情報の持つ熱量は言葉などとは違って等しいものであるからだ。(文学部 人文学科 宗教学宗教史学専修課程 3年)

 

◆ 講義を聞いて、韓国の歴史やその背景、トランスナショナルという言葉が持つ可能性など、多くの知識を得た気がしている。今回の授業を通じて我々が考えるべきなのは、グループワークテーマにもあったように、ソーシャルネットワークが発達しよりボーダーレスとなった今日において世界とのつながりをどう持つべきかということだろう。グループの中でこの前の香港のデモについて取り上げる学生もいたが、正直私はあの様子をTwitterなどで見ても特に何も感じることがなかった。やはり海外の事柄というのはどこか他人事のように感じてしまう。しかしそれを自分ゴト化できるような事柄、日本にとってよりニュース性の強いものに関してはソーシャルネットワークの拡散性と俊敏性の恩恵を感じる。結局世界で起こっている事柄というのは、いかに自分ゴト化し得るか及びどれほど自分ゴト化する為の背景知識を持っているかによるのだと思う。そうしたことを感じ取った講義であった。(文学部 思想文化学科 哲学専修課程 4年)