岡ノ谷 一夫(教養学部 生物心理学・神経行動学)

「コミュニケーションの進化と心の発生」


予習文献

  1. 『さえずり言語起源論――新版 小鳥の歌からヒトの言葉へ』 岡ノ谷 一夫  (著) 岩波書店 (2010) 
  2. 『「つながり」の進化生物学』 岡ノ谷 一夫 (著) 朝日出版社 (2013)

 

  ※履修者には書籍・論文を貸し出します。詳細は初回授業でお伝えします。

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◇ 人は、クジラなど発生学習可能な動物と比べ、言語によるコミュニケーションによってやり取り可能な情報の総数が、著しく多いと言える。 素直に論理展開すれば、鯨にとっての「状況」(海流や海水温など)よりも、人類にとっての「状況」が はるかに複雑であり、現象学的にいえば、主観的状況の複雑さがその総数の多さの原因である。 ただし、以下の点は注意が必要だ。すなわち、「生きる」ために、そこまで複雑な言語が、本当に必要だったのか。 「言語」を過大に評価しすぎず、相対化した見方が必要であると感じた。

(文学部・社会学4年)

 

◇ 産声仮説以外の可能性について、気候的要因、また生息域の拡大はどれほど影響しただろうか。人類の誕生地のタンザニアから北部への内陸部は標高が比較的高く(東部、南部で平均海抜1000メートル程度)、したがって酸素濃度にも差が出てくる。さらに、移動の過程で高地を渡り低地に移りというアップダウンの大きな移動の過程で呼吸を整えるのが上手いものが適応していく、というなかで意図的な呼吸の制御が人類においても可能になったというのも可能性として考えられるだろうと思う。

(文学部・西洋史学)

 

◇ 音声分節化から文法へは、省エネしようとした結果ではないかなと思った。歌を切り分けるようになり、徐々にフレーズと意味がリンクしてくると次は、もっと速く、もっと容易に意味をわかるようになりたい、と考える。長い歌のどこに自分の知りたい情報があるのかがおおよそ決まっていれば、そのあたりを集中して聴けばいいからだ。そうして歌文法の順番に意味を持たせ始め、代を重ねるごとにより明確な文法になっていったのではないか。(言語の成立も、抑揚のついた歌から省エネを求めてだとしたら、おもしろいと思う。) 

(文学部・美術史学3年)

 

◇「遺伝子によって発声学習できるかどうか決められている」ことについて、それならなぜ220種の霊長類の中で人間のみが選ばれたのでしょうか。「音列分節化は他の動物たちはみなできるが、言語は人間しか持っていない」ことについて、文字が非常に重要な役割を果たしたと考えております。確かに話し言葉が最初にあって  、その時点ではまだ文字はなかったのでしょう。しかし、どの音とどの文字が対応しているかきっと「文字」がまだできていない時代でも存在すると思います。「文字」はただその対応している「もの」を可視化しただけではないかと思います。 「もし人間が滅びるならば、それはきっと言語による」ことについて、確かに言語に頼りすぎで人間は本当の事実を見えなくなっているのではないかと思います。

(文学部・言語文化学科3年)

 

 

◇ 今回のグループでの議論で気になったのは「進化と発声学習習得の時間差」です。哺乳類で発声学習をするのはヒトだけであるようですが、それはいつ発生したのでしょうか。産声仮説の検討において、ヒトの赤ちゃんが特に弱いということは理由付けになるような気がしましたが、他の哺乳類や動物も十分弱いという可能性はないのでしょうか。「ほかの霊長類があれほど泣いたら喰われてしまう」とありますが、ヒトも道具などを持ち外的に対抗する手段を持つ以前は、やはり喰われてしまうと思います。だとすれば、赤ちゃんが親を鳴き声を制御するようになるのは、ある程度の進化を遂げた後ということになります。そう仮定すれば、ヒトの出現と産声制御にはタイムラグがあります。運動野と延髄呼吸発生中枢の接続は、そんなに後の時代の話であるとどうして言えるのか、疑問に思いました。

(教育学部・比較教育社会学コース4年)

 

配信高校より

◇ 言語学者のみならず、国語教員等「ことば」と関わる者ならば、「ことばとは何か?」、また「ヒトはどうやってことばを獲得したのか?」といった話題は、大いに興味を引かれます。今回の岡ノ谷先生の講義は、そのことについて十分以上に応えて下さる内容でした。中でも、「ことば」の獲得に対する「準備=前適応」という考え方は(言語学に携わっている方達ならば周知のことかもしれませんが)、普段「ことば」を機能の面からのみとらえることの多い我々にとって、新鮮であり、まさに目から鱗が落ちるような思いがしました。また、講義の最後に述べられた、「ことばはそれほどいいものだろうか?人間が滅びることがあるとすれば、それはことばではないかと思っている。」というお話しは、「ことば」こそ人間にとっての掛け替えのない宝物だと、つい安易に考えてしまいがちな我々の意表を突くお話しで、改めて「ことば」についてより考えてみたいという意欲を沸き立たせてくれるものでした。

 最後になりますが、講義後のワークショップにおける学生の方達が発言するレベルの高さにも驚かされました。高校の現場においても、あのように、自分の頭で考えることが出来る生徒を育てていきたいと思います。

(埼玉県立高校・教員)