金井利之

(法学政治学研究科 行政学)

「地域/住所/自治体という居場所」

予習文献

・嶋田暁文他編『地方自治の基礎概念ー住民・住所・自治体をどうとらえるか?―』公人の友社,2015

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

■今回は、法律の観点から住宅という居場所について考察した。特に、自治体という制度上誰もが所属するコミュニティの実情について考えた。そもそも人々は、近現代的自治体がメンバーの加入・脱退・排斥の決定権を失ったという点で(財力等の権力があるという条件の下で)自由を手にしたわけであるが、それは同時に自治体における人々のつながりの低下をもたらす。人々の自治体への帰属意識はコミュニティにおける居場所よりも、住所などの行政的な法規によって生ずる責任に起因するものであるという理解はとても納得のいくものであった。また、居住することと居場所があることの間の違いについては、前者は後者に比して極めて制度的あるいは物理的なものであるのではないかと思い至った。グループワークにて、住所が必要となる粗大ごみ出し等の際に居住を感じるという意見や、拠点たる住宅に存在していることが重要な要素として出たためである。(工学部マテリアル工学科・4年)

■授業では「住む」ということと居場所の関係性について、またその中で行政や自治体の役割についても取り上げられていた。グループワークを通じて思ったことは、現在は従来に比べて住むということが居場所であるという意識が薄れている、そしてこの先も薄くなっていくのではないかということだ。居場所があると感じるのは「そこにいる人」とのつながりからくるものが大きく、同じ地域に暮らす人(近所付き合い等)との関わりが希薄になっていること、「居場所」をもっとも感じやすいと考えられる家族も核家族化が進んでいることや単身世帯、少人数の家庭が増えていることなどからこのことが感じられた。またインターネットの発達により居場所は「そこにいる人」との間に作る必要性がなくなり、ネットの中で築くこともできるようになったためより一層住むことと居場所の関連を薄くすることを加速させているかのように思われる。(農学部国際開発農学専修・3年)

■今回は法学部教授の講義ということで、自分の知識と関連づけてお話を伺うことがだきた。「住居」、「居場所」についての法的な枠組み、それと現実的な感覚とのズレという点は、とても興味深いテーマだった。この講義でも度々話題になっている上から与えられる「場所」と人々の認識の差異という問題は、難しくかつなかなか解決が困難であるように感じた。グループワークでは特にはその「居場所」が持つ心的な意味合いについて議論が盛り上がり、政府や公的機関がそれをどの程度担保すべきか、居場所の選択の自由と、望んでも手に入れられない人はどうやって区別すべきかなど、簡単に答えは出せないが深く考えていく必要がある問題について意見を出し合うことができた。今後も法律を学んでいく中で、現実問題とのバランスは1つの大きなテーマなので、さらに考えを深めていきたい。(法学部第一類・4年)

■私は親の庇護の元で育ってきたので、現代の日本には居場所の自由があるものの居場所の保障はないということに、これまで気がついておらず、今回の講義で衝撃を受けた。近世では土地や職業に縛りがあり、居場所の自由はないものの、居場所の保証がされていた。現代の価値観において自由はもちろん大切なものに当たるが、一方で自由を突き詰めた結果である、住所やお金がないと生きて行くことのできない社会は不健全だと感じた。居場所の自由と居場所の保証について、第三回の講義における都市への権利の議論と絡めつつ、もっと考えなければいけないと感じた。

また、今回はグループワークの中で、住むと言うことは一体なんなのかと言うテーマについて話し合ったが、それを通じて、居場所とは、自分が認められる場であること、自分とその場の関わり合いが深いことなのではないかと感じた。(工学部都市工学科・4年)

■住むということは継続的な生活の拠点を置くということであり、居場所があるということはその人が居たたまれなくならない場所が存在するということだと考える。

住みかへの愛着など、住むという行為に情緒的な側面を見出すことができるかもしれないが、居場所を持つことの方がはるかに人の感情と関係の深い行為なのではないか。物理的にというだけでなく精神的にも排除の圧力を感じない場所が居場所といえるからである。

住居第一主義は「引きこもり」主義、独居老人孤独死主義、民事不介入・DV放置主義につながるとの議論があったように、住む場所さえ保障すればいいのではなく、居場所の確保も重要な課題といえる。

行政が居場所を提供することの限界については授業中にも触れられていたが、保障すべきなのは居場所となる場所や人の集団だけではなく、居場所を自分自身で見つける力・作り出す力を人々が持つことなのかもしれないと思った。(経済学部経済学科・3年)

■現代において、住むことは自治体にはその自治体の権力拡大につながるが、地域社会においてはそうではない。過去の面影はなく、加入・脱退・排斥において不干渉傾向にある無縁社会の色彩が強まったため、近代自治体に居たとしても、地域社会に居場所があるわけではないのである。

住居というが、住所と居場所とでは、生活を送る場所や概念という意味では同じであるが、後者は自覚は主観的であるものの、自分の意志決定によらずに構成される可能性があり、コミュニティを意識し、複数存在しうる。また、前者は法的に税を納め福祉サービスを受ける権利が発生する点でも後者とは異なる。

住民は住居を携える人と定義する。住居も居場所となりうるが、そうでない人たちもいる。居場所は人とのつながりを意識するものであり、精神的な安らぎをもたらす。以上を踏まえ、住むということは持続可能性のある法的に保障された物理的空間であると考えられる。(農学生命科学研究科生圏システム学専攻・修士1年)

■人が自分がいる場所を「居場所」と感じるためには、その場所がある程度狭く、なんらかの境界を持っている必要があるように思える。その観点から考えてみると、住民が自分の住んでいる場所を含む自治体を「居場所」と感じるには、自治体という規模は広すぎるのではないだろうか。地域社会も、物理的な場所としては「居場所」になりうる狭さを備えているが、同質的な集団を自力で作れるようになった今、質的な面で広すぎるのではないだろうか。

その一方で、自治体・地域社会の側ではある程度の広さを備えていた方が、集まるお金も増え、生み出せるメリットも大きくなる。平成に入ってから自治体の統廃合が進んでいることを考えれば、このメリットはさらに重視されてきていると言える。

では、住民との間に生じているギャップをどうするべきか。それには、メリットを住民に提示していくことで、ドライな関係を築いていくしかないように思う。(文学部言語文化学科フランス語フランス文学専修課程)