渡辺 裕(文学部 美学藝術学・文化資源学)

「”作品”とは?”演奏”とは?:”デジタル・リマスター”の時代の音とメディア」



予習文献

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講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

グールドの「歌」は、生の演奏を重視する立場から見れば、グールドの「演奏」の一部ではあるだろう。「歌」は彼の演奏とは不可分の存在であり、「歌」抜きに彼の演奏を実際に聞くことは、まずありえないからである。だが「演奏」とは、楽器の音色や、歌手の歌声といった、楽譜に載っているものを指すという立場に立てば、彼の「歌」は、「演奏」の一部とはみなされないのだろう。ここで問題なのは、「演奏」とは楽器の演奏や、歌手の歌声のことのみを指すのか、客の拍手や声、あるいは聴覚以外の感覚に訴えるパフォーマンスも含まれるのかということだ。また、一回性を持ち、楽譜にない物音などを含むコンサートの特徴と、絵画などと同様、一度完成すれば同じ内容を繰り返し鑑賞できる記録媒体の特徴のどちらを重視するかも、この問題に大きく影響するだろう。その中で私は、音楽の、他の芸術と異なるライブ性、一回性を重視し前者の考えをとる。(文)


曲は作曲家による芸術表現であり、演奏家はその曲の楽譜などに拘束されながら、強弱などの個性を出して演奏すると考えると、グールドの「歌」は彼の「演奏」の個性と捉えられるので、「歌」も「演奏」の一部と言える。また、他の演奏家やコンピュータソフトが演奏し様々な演奏が生じても、「曲」自体は基本的に作曲家の個性を表すものと考えると、「歌」はグールドの「曲」の一部とは言えないだろう。Zenph Studioの制作したものがグールドの「演奏」と言えるのかは難しい。今回の場合は、コンピュータソフトの精度がどうであっても、グールドの「演奏」は彼の「歌」を内包するものと考えているため、Zenph Studioの制作したものはグールドの「演奏」とは言えないと思う。(文)


ゼンフ・スタジオによる”Re-Performance”におけるグールドの口からこぼれる「歌」についてであるが、私はこれを演奏の一部であると考える。作曲=楽譜を書くことであるならば、演奏は作曲からは本質的に切り離される。すなわち作曲(楽譜)がルールに従って固定化された作品(この点において絵画に等しい性質を持つ)である一方で、演奏は二度と同じものたり得ず、その時々の演奏がそれぞれ異なる作品として受容される。そしてその一度の演奏もまた、聞く人の座る位置、建物の造りに影響を受けるため、ある一定の場所から音を拾ったものである録音(CD等)は、作品の不完全な記録なのである。これに基づけば、グールドの「歌」は「演奏」の一部であり、「曲(すなわち楽譜)」の一部ではない。またゼンフ・スタジオの製作したものはグールドの演奏を一地点から不完全に記録したものであるため、「グールドの演奏」そのものとは言えない。(経済)


音楽作品とメディアの関係についてでしたが、例えば文学においても同一の作品が雑誌・単行本・文庫など複数の媒体を通じて読者に届くことは珍しくありません。しかもこれらは互いに異なる組版をされていることが通常ですし、表記の仕方が変えられていることもあります。こうしたことが作品の同一性を疑わせるものとまで考えられることは少ないですが、作品の印象を違わせてしまう部分はあるはずです。また、先生が立てられた三つの問について述べるならば、「誰の演奏か」とか「どこまでが曲の一部か」といった問への答えは文脈に依存して変わるのだろうと思います。例えば法的に考えればZenph Studioバージョンがグールドの「演奏」であって彼になにがしかの権利があると結論付けるのは困難でしょうが、これをグールドの演奏とみなすことにもメリットがあり、意味するところをすり替えながら「演奏」という言葉を用いざるをえなくなってきているように思いました。(法)