福士 謙介

(未来ビジョン研究センター  環境工学 サステイナビリティ学)

「環境に関する科学の不確実性と不安」

予習文献

●中西準子・益永茂樹・松田裕之編『演習 環境リスクを計算する』岩波書店、2003年

●中谷内一也『リスクのモノサシ―安全・安心生活はありうるか』NHKブックス、2006年

 

 

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

・リスクはあらゆる行動について回るものだ。これを限りなく小さくすることはできても、ゼロにすることはできない。しかし現代の日本では、全くリスクの存在しない状態を求める、ゼロリスク信仰が蔓延っているようだ。それはなぜだろうか。私が思うに、その原因は近代化ではないかと思う。かつて存在した、正体不明の存在に感じる畏れへの対抗手段が、近代化によって失われてしまったということだ。かつての日本人は、身の回りで起きる不可思議な事象を「妖怪」や「カミ」、あるいは怨霊などのせいだとした。こうすることで、摩訶不思議な事象を説明し、甘んじて受け入れていた。不可思議な事象が起きるのも、仕方のないことだと考えていたのではないだろうか。しかし、近代化はこういったカミや妖怪を迷信として切り捨て、全てを科学によって説明可能であるという神話を唱えた。全てが科学的に制御できるという妄想に取り憑かれた人々は、統御できるはずの科学がリスクを生み出すことを想定していなかったのではないだろうか。これからは、科学も道具のようなものではなく、気まぐれな動物のようなものだと捉えて、リスクを受容する姿勢が必要だと思う。(法学部3年)

 

・人間が認知するリスクと実際のリスクとの差が問題になっていますが、実際のリスクが本当に真なのかということが気になりました。科学的手法に則ってリスクを割り出したとしても、そもそもリスク要因を限定する段階で何かしらの価値判断がなされていると思います。たとえば整形は健康に悪影響を及ぼすからやめるべきだという言説があったとき(本当に悪影響があるのか私は知らないのですが)、それが科学的に真であったとしても整形しないことによる就職などでの外見差別といったリスク要因が無視されていると思います。そこではルッキズムの不可視化や「生まれたときのままの顔」で生きるべきといった主義が関係するでしょう。リスクを科学的に考える人たちの間にどのような価値判断の基準があるのかをまず問うことが「人間の認知するリスク」(科学的に真ではないとされているものとしての)との差を小さくすることにもつながるのではないでしょうか。(文学部4年)

 

リスクについて、白黒で考えてはいけないということ、また自分のリスク基準を相手に押し付けてはいけないというところが印象に残った。今回のコロナについても、同じことがいえると考える。

 リスクを考えれば、家から一歩も出ないことが要求される。一方でこれは現実的でなく、経済を破綻させることに繋がってまた違うリスクを生むのである。だからこそ、この白と黒の加減が難しいと感じている。また、コロナの厄介なところは、致死率の確率が年代によって全く違うという事である。20代の人はかかっても致死率は0に近い。一方で、80代になるとその確率は25倍になる。20代が移動を広げれば広げるほど、リスクの皺寄せは80代に行くのだ。

 しかし、このような問題の構造はコロナだけではない。最近話題の「世代間格差」においては、逆の構造が起きている。私たちは、世代間・国家間・個人間のリスクの皺寄せについて、常に考え行動していく必要がある。そうすることで、必要なときに「強制」ではなく、「協力」として要請できるような社会になるのではないだろうか?(文学部4年)

 

感染症の歴史をたどりながら人間がいかにリスクを克服してきたかについて考えることができた。

 今回のディスカッションでは、人間が認知するリスクと実際に存在するリスクの間に存在する差が社会的なコストになりうるのかについて考えた。しかし、ここで示されている「人間」とは何者であるかについて考える必要があるのではないだろうか。例えば福島第一原子力発電所事故についても、あるいは今回の新型コロナウイルス感染症の流行にしても、専門家の間ではリスクを提起し、議論も行われていたことはよく知られている。

 結局のところ、科学技術の発展などに伴い、人間に(能力的に)認知できないリスクよりも、人間に認知はされているがそれが社会的に受け入れられていないという場合にこそ社会的なコストが発生しているのではないかとも考えることができる。

 そこで、個人が認識して社会が認識していないリスク、そして社会的には認識が共有されているが一部の個人には共感を得られていないリスクに分けて議論するべきではないかと思いました。(教養学部4年)

 

・何かしらのリスクに直面する際、人間はそのリスクを実際よりも高く見積もったり低く見積もったりすることが多い。新型コロナウィルスに関するリスクにしても、自分の身近で感染者が出ていないことを以って感染リスクを低く見積もり勝手気ままに行動する人もいれば、日に日に増える感染者数とセンセーショナルな報道に当てられて必要以上に自他の行動を制約する人もいる。そうしたリスクの見積もりの大小はリスク選好的/回避的という個人の性向にも依るところではある一方で、その個人がどういう状況に置かれているかにも極めて大きな影響を受けている。例えば原発を設置/稼働する場合に最もリスクを被るのは原発の周辺に居住する住民であろう。そうした人々が認知するリスクが実際のリスクよりも高く感じられるのは自然なことであるし、そうした感覚を数字で否定するばかりでは話は前に進まない。最も不利益を被りうる人の立場や不安に寄り添うことが、実は認知するリスクと実際のリスクとの乖離を縮減し、ひいては社会的なコストや損失を最小限にとどめるためには必要なのかもしれない。(教養学部3年)

 

・人によっても時期や社会状況によっても、何をどの程度「リスク」と見なすのかは異なる。そして、リスク-リスク/リスク-コスト/リスク-ベネフィット間には、トレードオフ関係が存在する。こうした問題構成は、なにも本講義で中心的に取り上げられたコロナ等の感染症に限った話ではない。津波等の自然災害やワクチン、原発に至るまで、あらゆる「リスク」に付きまとう問題である。後半のディスカッションでは、ではどのような社会的対応が考え得るかを議論した。簡単に「最適解」が見つかるはずもない複雑な問題であるが、人々による「リスク」の認知と「安心」への希求が先にも述べたように時に曖昧でいい加減なものであること(「喉元過ぎれば熱さを忘れる!」)を踏まえ、それらに安易に流されることなく第一に科学的な「安全」の基準に依拠して、(例えば津波対策の防波堤のように日常その必要性が必ずしも意識されていなくても)いざという時の「リスク」に対応できるような、社会的な「溜め」(余裕)を用意しておくべきであること、またそこでも何に優先的に投資するかをめぐって議論や対立は避けようもないが、リスク・コスト・ベネフィットを受ける(被る)主体が特定の集団に偏りすぎる「不公平」な事態だけは避けなければならないことが、大きな方針として導き出された。コロナ禍でさまざまな「リスク」が叫ばれ相互に対立しているこの「不安の時代」、ないしいつかこれが終息した後、感染症に対する「リスク」認知が薄らいでゆくであろう「ポスト・不安の時代」を生き抜いていくうえで、とても有意義な講義と議論であったように思う。(教育学研究科修士1年)