第3回

 清水哲郎 (東京大学大学院人文社会系研究科 死生学・応用倫理センター 臨床死生学・倫理学)

「生と死/living と dying」

「生と死」というと、相反することのように思われます。「死」を「生の終り」と捉えるにせよ、「生きている」と「死んでいる」という相容れない二つの状態と捉えるにせよ、「生か死か」ではあっても「生かつ死」ではありません。
では、"living" と "dying" はどうでしょうか。あるものについて "dying" ということができるなら、そのものについては "living" とも言えますね。どうしてこういうことになるのでしょう。このあたりから考え始めようかなと思ってます。


参考文献

・清水哲郎、島薗進編著『ケア従事者のための死生学』ヌーヴェルヒロカワ、2010年。
・東大出版会の死生学のシリーズ。
・清水哲郎『最後まで自分らしく生きるために』NHK出版(ラジオテキスト)、2012年。
・清水哲郎、アルフォンス・デーケン、浅見昇吾編著『人生の終わりをしなやかに』三省堂、2012年。

予習資料

・清水哲郎「生物学的死生と物語られる死生」清水哲郎、島薗進編著『ケア従事者のための死生学』ヌーヴェルヒロカワ、2010年、16-34頁。

 

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講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◇文学部 言語文化学科言語学専修 学部4年

死と言う状態に対して、「身体の死」における生と死の境界とは脳死問題などによって近年ますます揺らいでいる。「人の死」というものも周囲の人との交わりによって左右されうるものであり、これもまた確たる区切りというものは存在しない。また特に『イザナミとイザナギの別れ』の話題が興味深く感じた。イザナギがイザナミと会話したとき、その人格は生き返っていた。しかし、イザナギがイザナミの遺体を確認したことで、死は確定された。イザナギという他者の視点によって生死の境界が曖昧になっている。これは現代の震災被害者の遺体行方不明の問題とも重なるだろう。生死の境界は他者の視点からの確認によって決定されている。

◇文学部 行動文化学科社会学専修 学部4年

”身体の死” “人の死”というもの。私たちはそれらを自然と区別しながら使い分けている。そうならば、それらの区別は社会の構成員の中で規範のようなもので決められており、そこに主観性はないと思われる。そして、主観的に区別しているように感じても、集団の中の規範によって与えられた区別を主観的に選択しているように感じるのではないか。このような視点に立つと、“身体の死”“人の死”の区別は社会や集団によって変わるものだと考えることができる。

 

◇法学部 第二類(公法コース) 学部3年

生と死の境目というと、脳死・臓器移植の話を思い浮かべていましたが、身体の死と人の死という興味深い捉え方を提示していただき、大変勉強になりました。二つの「死」については、身体の死が物理的・科学的な死であり、人の死が観念的な死であって、前者の上に後者がある、という意見に一番納得しました。しかしながら、最後の意見交換で出てきた「比喩的な死」との違いは、何となくはわかるものの、はっきりとその差異を理解し説明することまでは難しいと思いました。今回の講義は知的好奇心を刺激される話題でしたが、実は私はまだ身内や友人を亡くしたことがありません。そのときになって、この講義の話がどう感じられるかが、怖くもあり興味深くもあります。

 

◇文学部 行動文化学科社会学専修課程 学部3年

死者が残した書物や記憶による対話などを含めないならば、人格的交流は身体の機能停止によって不可能になるため、わざわざ「身体の死」と「人の死」を区別する必要はないのでしょうか。影響力の消滅などの比喩的な死が「人の死」と異なるならば、もう少し「身体の死」と「人の死」の重なる点、区別される点についてのお話がいただければよかったと思います。

 

◇文学部 行動文化学科社会学専修 学部3年

万人にとって普遍である死でも、宗教などの文化によって捉え方が異なり(別世界移住・現世内不活性化)、語法や文法などに反映されているのが興味深かった。

「死者の世界」という観念が、人と人とのつながりを重視する人の性質と関係があるというお話は、意外であったが納得もできた。

 

(以上)