守川知子

(人文社会系研究科 西アジア史)

「異邦人・異教徒として生きる:近世世界を旅したアルメニア人改宗ムスリム」


予習文献

・永田雄三、羽田正,『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』(中公文庫),中央公論新社,2008

・マルジャン・サラトピ著,園田恵子訳,『ペルセポリスI イランの少女マルジ』,バジリコ,2005

・マルジャン・サラトピ著,園田恵子訳,『ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る』,バジリコ,2005

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◆今回の講義の中で行った歴史の話しとグループテーマはかなり乖離があったように思えて、講義のことが参考になった話し合いにはならなかったように思う。時代や特徴、場所も違う中で、講義の中では具体的な話しが多く、そこをうまくグループの中で抽象化できなかったために、身近なマイノリティ性(転校生であることや留学生であること)と結びつけることが出来なかった、というのが今回の一番の感想だった。最後の先生のコメントでもあったように、誰もがマイノリティになり得る中で、あらゆるマイノリティ性をマジョリティ側が努力して対策する必要もないと感じた。理想論ではあるかもしれないが、もっとも重要かつ必要なのは、そもそも一人一人の寛容さの感度をあげて、マイノリティがマイノリティとしていることが認められることなのではないか。マイノリティであることが、「対策」が必要な課題を生んでいる現状こそ変えるべきだと思った。 (教育学部 3年)

 

◆宗教は信者にとっては心の拠り所であり、精神的な「居場所」であるべきはずであるのに、宗教的にマイノリティであるがゆえに居場所がなくなっている状況がある。この忌むべき状況はテレビや様々な講義で話題となる問題であるが、その問題を本授業で改めて痛感した。日本ではマイノリティとなる宗教を持つ人が日本に住むことも多くなっているので、そういった人の居場所作りについて考え直すべきだと感じた。グループワークでは、マイノリティに対する誤った気の遣い方がかえってマイノリティを阻害させることになることに気づき、共存の難しさを突きつけられた。その中で、前回の山崎先生の講義であがった、「障がい者だからといって特別扱いしない」コミュニティはうまく共存できている例だと思った。障がい者を障がい者として接するのではなく、同じ人間であるという共通点で接しており、マイノリティとの共通点を見つけることが大事ではないかと考えた。(教養学部)

 

◆自分の信仰とは異なるイスラム教の学派やキリスト教の世界を渡り歩いたアブガルの一生は、現代に通ずる問題を提示しているようで大変興味深かった。今でこそ、異なる宗教を信仰しているからという理由で投獄されることは(一部の地域を除いて)なくなったが、Islamophobiaに代表される偏見・差別の本質はなんら過去のそれと変わらない。宗教に限らず、アイデンティティが異なる人同士でどうやって社会を作り上げていくかという問いはいまだ未解決である。一つこの点について印象深かったのは、授業の最後に守川先生が「異なるアイデンティティから自らと同じアイデンティティに同化してきた者を人は好む」とおっしゃったことである。私もその通りだと感じた。EUの難民問題もそうだが、異なるアイデンティティを持つ人がどこまで社会に「同化」し、どこまで自身の考え方・アイデンティティを保持するべきかという問いの難しさを再認識した。(法学部 4年生)

 

◆同じ民族の人々や家族、親戚が近くにいることは、一般的には、居場所であるように感じられるが、異教徒でもある彼の場合は、居場所がないと思わせる要素でもあり、同じ居場所が同じ人に対して、包摂したり排除したりといった両義的な影響を及ぼすと言え、とても興味深い。しかし、グループワークでは、多数派と少数派を単に対置させ、それぞれの側から対策を論じる内容となっており、講義部分の少数派内での差異や民族的には少数派だが宗教的には多数派といった複雑な属性に関する議論がワークに反映されておらず、居場所に関する一般的な問いに還元されているように感じた。そのため、学生側も転校生にオリエンテーションを実施するといった一般的な回答を導いたのだと思う。しかし、東大内部の居場所について論じたグループもあり、自らが誰かの居場所をなくす加害者になりうることを気づかせるもので、東大の排他性に目を向ける重要性を感じた。(文学部宗教学宗教史学専修 3年)

 

◆今回のグループワークではマジョリティがマイノリティに向けるまなざしについて考えさせられた。マイノリティへの直接的な抑圧や疎外は顕在化した問題にすぎず、本質的には相手が個人として何を望んでいるのかに寄り添うことなく相手につけられた「タグ」によって対応を変えてしまうことだと考えられる。当人の意志に反して抑圧や無視、逆に過度な歓待を行う人は、当人にとっての居場所、つまり心休まる相手となることはない。
翻って今回の講義の主人公であるアブガルに思いをはせると、彼はマイノリティであることで異国での抑圧や帰郷後の歓待を受けていた。この経緯をたどると彼にとって親戚や異国の同業者、イスファハーンのムスリムたちは居場所たりえたのか、疑問である。彼の熱心な信仰には失われた居場所を思い、神のもとに魂の居場所を求める思いも込められていたのかもしれない、などと想像してしまう。(農学生命科学研究科 生圏システム学専攻 修士1年)