渡部泰明

(人文社会系研究科 日本語日本文学)

「偶然と日本古典文学」


講義後情報コーナー履修者のレスポンス抜粋

序詞を省いた本当に言いたいことの部分だけだとナルシスティックな感情の吐露にしかならないものが、序詞というイメージを介することで理解可能、把握可能で共感を生む文芸になるということが印象的だった。自分は文学とは何なのか、何のために文学があるのかといったことについて疑問に思っていたが、授業を聞いて、作者の個人的な経験を言葉を介して他者と共有できる、普遍的なものにすることが文学の目指すものなのかな、と思った。
後半では、センスの良い面白い歌がいくつも出てきて、音のつながりや東大に関する言葉というとっかかりがあったからこそ出てきたイメージなのかな、と思った。また、自分は運悪く自分の作った下の句に上の句をつけることになってしまい、つまらないものしかできなかったので、下の句と上の句を書いた人が別だからこそ斬新なイメージが生まれる部分もあるのかなと思い、創作には他者の視点が良いスパイスになることを感じた。

(法)

 

昔の人々は(無論現代でも使いこなせる人はいるのだろうが)、偶然同じ発音を持つ単語を用いて、しかも主想部とは一見関係ないような文章で、伝えたいことを修飾することに長けていたことを知り、とても深いなと感じた。そしてそれを実際に授業で行ってみることにより、その修飾法の難しさと、過去の短歌がいか考えつくされたものかということを実感できた。ただ、授業中に挙がった短歌のうちいくつかに、おっしゃっていた「外的な偶然性」ではなく「内的な必然性」によって作られたのではと思われるようなものがあり、(それらの短歌も興味深いものではあったものの)どこまでが「序詞」なのであろうかということは疑問に思った。また、他のトピックではあるが、和歌と「外的な偶然性」に関して言えば枕詞はとても興味深く、偶然用いられたような形容詞がどうして全国で用いられるようになったかについて、この授業中に興味関心をもった。

(法)

 

序詞というものは、偶然の要素をもって成立する一方で、そこには「序詞の機能を成立させよう」という作り手の意志があり、それ故に序詞を含む句の成立も創作活動であると解釈できるように思えます。
しかし、授業での「他人の作った下の句に対して、序詞として成立しつつ、東大に関する語を含む上の句を作る」という行為は、外部から要請された制約が非常に厳しいため、完全に同一の制約が与えられたときに、他の誰かと私が全く同じ上の句を作るという現象が、それなりに高い確率で発生するように思え、これを創作活動と呼んで良いものかわかりません。
少なくとも私自身の感覚として、このグループワークでは、「創作活動をしている」のではなく、「制約に合致する条件をもつ文を探索している」という感覚で行っていました。
この授業を通して、そもそも何をもって「文学」と呼ぶのか、という議論の入り口に触れるという貴重な体験ができたように思えます。

(文)

 

和歌が偶然性により美しい調和が生まれるというのはあまり同意できない。因果関係が逆である。偶然性により、多種多様の掛詞になり得た言葉の組み合わせが本来的には存在し、長い歴史の中で掛詞は取捨選択され現在のような形になっている。これは偶然ではなく、人間が美しいと感じるものが残る必然だと感じる。現代に受け継がれることのなかったものも含め、様々な言葉の候補の中で、人間の好みとくフィルターを通し、素晴らしいと判断されたものだけが現代に残っている。このことは、偶然性ではなく、「人間の美的感覚の共通性」というものに根拠付けられており、更に言うのであれば「人間の美的感覚の共通性」を担保するのは、共同体の性質、すなわち異質なものを人間社会が排除するという性質である。同一な感覚、すなわち同じ「美的感覚」を共有してるからこそ人間社会は現在まで続いており、それにより、一見関係のない言葉の組み合わせが現代に存在する。

(文)

 

和歌を作る際に頭から考えるのではなく、下の句で詠みあげたい心情を先に作って上の句をつなげるという方法に目から鱗だった。この詠み方は詠み人の間では広く使われている方法なのか気になった。
下の句と上の句を別々の人が考えるのは、意図的に作品に偶然要素を盛り込んでいて面白かった。一首丸々詠もうとすると恥ずかしくてつい取り組みが疎かになってしまいそうなので、学生に積極的な参加を促すためにもいい方法だと思った。
細かい指摘は無粋かなと思い黙っていたが、完成した和歌が上の句と下の句で一つの意味を持った文になってしまうと今回の講義内容に沿ったものではなくなってしまうのではないかと感じていた。今回の大賞作品は自己嫌悪をストレートに表した下の句に、「死者の蔵」という全く関係のない風景描写でありながら「死」のネガティブなイメージを引き継げて、洒落にもなっている上の句を付けていたので本当に素晴らしかったと思う。

(薬学)

 

和歌は様々な偶然に支えられているようだ。掛詞も序詞の押韻も、たまたま音が重なる偶然である。本歌取りも、読み手と聞き手が同じ歌を知っているかは偶然に委ねられる。
こうした創作者と享受者の間の溝を埋め、同じ感覚を共有せんとする手法は、日本の和歌に限らないように感じる。たとえば近年ブームが起きているラップは共通する点が多い。ラップの代名詞ともいえる押韻や掛詞は然ることながら、縁語もよく見られ、加えてサンプリングという日本の和歌で言う本歌取りにあたる技法もある。ラップの試合において、ただ韻を踏み続けるよりもサンプリングを上手く決めたときの方が圧倒的に客が盛り上がる様にも、創作者と享受者の感覚が運命とも言える重なりを織り成し、より大きな感動を呼ぶことを見て取れる。
日本の古くからの和歌と、アメリカの新しきラップと、両者から、偶然の織りなす感動の時間的・空間的普遍性が垣間見られるのではなかろうか。

(教育)

予習文献

初回につき予習文献はありません。