井口 高志

(人文社会系研究科 社会学)

「病いという不安と生きる:認知症をめぐる人びとの実践から」

予習文献

●井口高志『認知症社会の希望はいかにひらかれるのか:ケア実践と本人の声をめぐる社会学的探求』晃洋書房、2020年

●北中淳子「新健康主義:日本での認知症予防論争をめぐって」『現代思想』2019年9月号

 

 

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

・今回の授業では「弱者が弱者のままで」をキーワードに認知症の予防と共生を取り巻く議論を紹介していただいた。認知症当事者は、できたはずのことができなくなる歯痒さと症状の進行を止められないもどかしさから大きな不安に苛まれることが多いと予想できる。その不安を和らげるためには社会全体が失敗を許容する空気を持つべきではないか、またそれは予防重視が自己責任論につながることを防ぐのではないかと考えた。まず予防の考えが自己責任論につながる背景には、病気の因子をコントロール可能だという傲慢な考え方があるように感じた。我々は常に環境(自らの身体や時間を含む)と作用しあって変化する流動的な存在であり、その相互作用の結果がある人に認知症として現れて社会生活への支障になったとしても責任を個人に帰着させるべきではないと思う。そして予防はこの考え方の上に、環境や周囲の人を巻き込む形でなされるべきではないだろうか。これは先生が講義後半で触れてくださった「ケアの中の予防/リハビリ」という脱二分法的な考えに近いと思う。

さらに失敗についても、責任を個人に押しつけず周囲との関わりを改善することが求められると思う。組織運営におけるjust cultureのように間違いをオープンにして互いに許容することが当たり前になれば、認知症でもそうでなくても周りと支え合うことができ、さらに症状の進行とともに周りとの関わり方が変わることで、その関わりに新たな喜びを発見できるようになるかもしれない。(工学部3年)

 

・先生が予防・リハビリと共生の対立構造だけでなく、その両者が持っている問題点を指摘されていたことで、共生の中での予防を目指していく必要性を感じた。ただ、やはり問題となるのは、予防・リハビリというものが個人的な責任からスタートしてしまっている現在においてそれを社会的に開いた形にしていくことが、さらに認知症へかかることを自己責任としていくことであると思う。認知症が生活習慣病の文脈で解釈されていってしまうのではないかという危険を感じる。

新川敏光が言うには、日本の福祉レジームは家族主義的なものから新自由主義の流れから市場に任せる自由主義的方向へと転換してきている。市場に任せることで認知症予防のサービスなどがより発達していき、ニーズを満たした予防・リハビリが可能になる可能性も高いが、一方でその利用を金銭的理由でできない人が出てくる。予防が当たり前になると予防サービスを金銭的に利用ができないにもかかわらず、認知症を自己責任にする社会になりかねない。

やはり、社会的な共生の中に予防・リハビリを組み込んだ社会を設計していくことが重要であると考える。その上で、認知症の方々の生活を助けるためにITサービスの発展が重要になってくるだろう。離れていても家族や関係者の方が見守れたり行動を見られるようなサービスやリマインドをしてくれる機能などを認知症の方々の人権に十分に配慮しながら拡充していくことが共生社会を作っていく上でのキーポイントとなると思う。すでに失割れてしまった地域社会に頼っていく方策よりは現実味があるのではないかと思う。(文学部4年)

 

・認知症のような慢性疾患に関して、医療的な観点から「予防」「治療」「リハビリ」という用語をなんとはなしに用いてしまうことがあった。しかし、本日の講義を通じて社会学的に考察をしてみると、こうした用語法自体が認知症に対してある種の「病人役割」を押し付けてしまっている側面があることに気づき、病を抱える当事者に対する周囲の関わり方の中で、知らずして当事者を傷つけてしまう可能性があることを知った。また、当事者にとって、慢性疾患を抱えるということは人生のある部分を病と共に歩むことであり、たとえ寛解したとしても従来の世界へは戻れないという制約を伴うものである。ゆえに、当事者が長い時間をかけて自らの病と向き合い、理解し、意味付けし、究極的には人生の中に病を織り込んでゆく一連の作業がより容易に行われることができるよう、周囲と当事者との関係性のあり方に関して考えを深めてゆきたいと思った。結局、病や障害といったものには、周囲との関係性の中で浮上してくる「症状」「差別」が存在するはずであり、これらでの苦しみを軽減するためにも、周囲の無関心や無配慮を理解や配慮へ変えてゆく努力が必要になるのだと思う。(文学部3年)

 

・認知症の予防は、「予防」の文字の通り認知症という「悪い事態」が生じないように気をつけ、前もって防ごうとする態度である一方、脳の健康な状態を良しとしてそれに対し衰えを悪と捉える恐怖や否定的な感情が背景にあり、認知症になってしまった人(病気になった人)を(努力不足、自己責任論など)否定する側面があり得る。それに対して共生は当事者をその存在のまま認め共に生きることを支え合う取り組みや社会のあり方のように思われた。「認知症とともに生きていくこと」は当事者にとって、特に認知症になっていく局面で葛藤や苦悩を抱えることがあると思うが、その背景の一つとしては(能力主義である)社会から承認されなくなるという不安や忘れる=悪という(マジョリティーの)価値観が蔓延しているからだとも思う。そこで大切なことは、非当事者が当事者について学び理解する取り組みをもっと進めることや、(非当事者が当事者という)ある意味「望まない他者」との「居心地の悪い共生」を受け入れる空気がもっと必要なのかなと考えた。(教育学部4年)

 

・数年ほど前に「障害を持っている」は正しい表現ではなく「障害がある」という表現をすべきだと教えてもらったことがある.今思えばこれは障害の個人モデルを脱し,社会モデルを考え始めた瞬間だったと思う.しかしこの社会モデルのみに拘ってしまうと,個人を無視してしまう可能性があることに今回の講義で気づいた.とは言っても,個人の価値観は自立して存在することはあり得ず,社会の中で形成されていく.例えば「間違えない方が良い」という価値観は,小学校で行われた忘れ物チェックで刷り込まれたと個人的には感じている.このような一般的だと考えられている常識のようなものを,いかにより多くの人が順応できるものに変化させていくかを考えることが必要なのだと思う.講義で紹介された「注文を間違える料理店」は,献立はハンバーグだったのに完成したのは餃子で,でも皆が楽しく食べていたというグループホームでの経験が元になっているらしい.このように,最終的な目的,この例では美味しい食事,が達成されれば途中の過程で少々間違えても許容できるくらいの緩さが日本社会には必要だと思う.そうすれば認知症によって出来なくなることへの恐怖=社会規範から外れることへの苦しみも少しは緩和されるのではないか.(工学系研究科修士2年)