牧野篤

(教育学研究科 生涯学習論)

「「農的な生活」と歴史的・社会的な居場所ー「学び」と「恩送り」がもたらす自分の存在ー」

予習文献

・牧野篤,『社会づくりとしての学び—信頼を贈りあい、当事者性を復活する運動—』,東京大学出版会,2018

・牧野篤,『農的な生活がおもしろい—年収200万円で豊かに暮らす—』,さくら舎,2014

・牧野篤,『「つくる生活」がおもしろい—ちいさなことから始める地域おこし』、まちづくり—,さくら舎,2017

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

日本の過疎化が進む農地、そしてそこに移住者を募るプロジェクトについて、興味を持ってお話を伺うことができた。自分も地方出身者として、地元の過疎集落に人が戻ってくる、入ってくるようにする方法はないのかとよく考えるが、やはりそこで問題になるのは経済的な生産性の低さに加え、排他的な集落の雰囲気、よそ者を嫌う風潮が根強いことである。今回牧野先生のお話からは地元の人、移住者の双方がプロジェクトに対して責任を持ち、恩送りの精神を通じて居場所を確保していくという取り組みが見られ、新たな発想の着眼点を得ることができた。グループワークでも話題になったが、学ぶことを通した相手へのリスペクト、自身の視野の広がりが、自他の居場所を広げていく大きなポイントになるのだということを理解できた。(法学部第一類・4年)

牧野先生のお話の中で、「学び」とは先人の残した知恵を継承していくことであるというお話があったが、自分の直感的な理解では「学び」は自分の中に「ない」ものを「ある」ものにしていくプロセスとして捉えていたから、それを後世に継承していくという部分までもが「学び」の射程にあるという考えはとても新鮮で興味深かった。ある一人が「ない」ものを「ある」ものに変えられたとしても、それを提供するのは別の誰かである。そのプロセスがなければ自分の理解における「学び」自体も成立しない。重要な視座を提供して頂けたと思う。(法学部第1類・3年)

今回の講義を聞いて、人々がお互いに認め合い、自分が社会に役立っている・自分も世界を作っているという感覚を持ちながら暮らしていけることができる社会になれば、具体的な場所がなくても、いつどこにいても自分の居場所を感じることができるのではないかと感じた。

豊田市の中山間地域の事例のように、仕事と暮らしが一体となり相互扶助の中で生きていく生活は、認め合いが生まれやすいと思った。これと比較して、現在の都市においては、仕事は暮らしと切り離された上で規格化され、労働者は代替可能なものとして扱われている場合が多く、認め合いが生まれにくい。経済性や全体の利益の立場に立てば、現在の暮らしの仕方の方が良いということになるのかもしれないが、個人としては、個人らしさ・多様性を重視して、お互いに認め合いながら、自分が役立っていることを実感できるような生活ができる社会の方が幸せで良いと思った。(工学部都市工学科・4年)

今回の授業は居場所について「農的な生活」、また歴史的・社会的な観点に着目してアプローチすることができた。まず講義の題名「農的な生活」について果たしてどういう意味であるのかを初めは理解することが出来なかった。農的=農業?で自然と共生して生きることを推奨しているのかとさえ思いもしたが、今回の授業やグループワークを通じてその意味であったり、「農的」に生きることの意義について学ぶことが出来た。講義内で特に印象に残っと言葉は、地元の過疎・高齢化は人口が増えていた時代から起こっている、過疎・高齢化は経済構造とかかわっているということを述べたスライドの部分で、『「博打」をとるのか「麻薬」をとるのか』と表現を引用されているところであった。ここでは博打=農林業、麻薬=サラリーマンと表されているそうだ。社会構造の変化でこのような表現が用いられるようになることに対してなるほどと思う部分があり印象に残った。(農学部、国際開発農学専修・3年)

農的な生活、と聞いて、最初は農業を営むというような、いわばルソー的な発想の話かと思っていたが、恩送りの話であったのかと勘違いした自分が少し恥ずかしくなった。しかし、今思えば、あながち間違いでもなかったのかと思い始めてきた。というのは、人に触れて自分の存在価値を知ること、依存ではなく、自分と相手の間に自分を生み出す、というのは、密な人間関係の中に生み出されるのであり、農業というような一つの目的に従事している人同士で上手くいくコミュニケーションの形態なのかもしれないと思う。また、これは自分自身の認知にも関わることで、現在のようにいわゆる「希薄」になった人間関係の跋扈している現在、そういった自分の居場所を見つけるのは難しくなっているかもしれない。居場所を見つける、というと他人を見つけるのだと安直に理解しがちであるが、そうではなく、居場所を自分で作り出すということが重要なのであると思う。(教育学部教育心理学コース・4年)

農的生活、人と人との間に生きることについて学んだ。その中で、人と人との間を形作るものとしての言葉、信頼の基本となる言葉についてのお話もあったが、私は言葉の限界について(授業でも触れられていたが)、強く感じた。よく人間は言葉によって自身を他人から規定してもらおうとする。それは恋人や友人、あるいは家族であるかもしれない。そしてその規定その規定された関係性について疑いを抱く。私は本当に家族なのか、恋人なのか、など。私はそのような事象を耳にするたびに言葉の限界とより依拠するに足るような信頼を形成するツールについて考える。例えばその一つは行動なのではないか。恋人であればする行動、家族であればする行動などが自身の中に存在、そして他者との間に共有されていれば、曖昧で無責任な言葉に頼らなくとも関係性を築ける。言葉は確かにわかりやすく、便利なツールであるがそれに頼りすぎるのは危険かもしれないと考えた。(工学系研究科社会基盤学専攻・修士2年)

脱工業社会では、競争的な産業消費社会の姿勢の見直しが迫られ、自主性・身体性を重視するつくる・つながる「農的な生活」が求められている。そこでは、相手と世界を自分との「間」につくり続けることや生かし続けることで、新たな価値・アイデア・文化・アイデンティティを生み出す。人間は文脈の中でしか生きられない。人間という漢字からも人は相手または世界との「間」があって初めて人間になることがわかる。ヒトと猿との大きな差異は分析可能な言葉による知的処理を行えるか否かである。いずれの場合も、言語による意思伝達を行うものは同種との関係に強く依存し、生後、自己同一性を認知していくためはひとりで生きていくことはできない。人は人とつながりたいから、相互認識されたいから言葉による意思疎通を図る。人の「間」に愛を見出し、「間」から子どもが生まれる。「間」は実はDNAが古くからよく知っている私たちの居場所かもしれない。(農学生命科学研究科・生圏システム学専攻・修士1年)